張本勲
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契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた[3][12][16]。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある[12][16]

松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」(つまり長距離砲としてよりも、打率を残せる中距離打者として育てる方針とした[45])という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。こういった経緯から、張本は松木のことを「大恩人」だとしている[45]

大川博オーナーの意向もあって一軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら開幕戦スタメンに名を連ねた[注 5]。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で2桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して新人王を獲得した。

2年目には打率3割を記録し、3年目の1961年には打率.336で21歳にして首位打者となった。

4年目の1962年は本塁打、打点ともに野村克也に次ぐリーグ2位を記録。同年は21敬遠で当時のパ・リーグ記録に並んだ[注 6]。広島で行われたオールスターゲーム第2戦では親族一同を招待し大活躍、MVPに輝き、故郷に錦を飾った[16]。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全7試合に4番打者として出場。第6戦で太田紘一から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。

1963年には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録、同年の22敬遠は野村克也に抜かれるまで5年間パ・リーグ記録だった。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得した。

1970年、打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残す。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年ランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。

1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修から史上7人目となる2000本安打を達成。同年の猛打賞22回は与那嶺要に20年ぶりに並び、1996年イチローに更新されるまで日本記録だった。1974年には通算7回目となる首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。「安打製造機」の異名を取り[4][注 7]南海ホークス野村克也らと共に1960年代から1970年代パ・リーグで活躍した。

日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期[注 8]からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた[46]。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した[47]。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた[48]1974年には大洋とトレード話がほぼまとまり、本人にもこの年10月23日に三原脩球団社長から移籍を通告される[49]。しかしこの年のオフに大洋監督に就任した秋山登が、大洋球団が期待の新人(山下大輔)を売り出すために、主力遊撃手米田慶三郎)をトレード要員にしたことに「とんでもない」と強い難色を示したことでわずか2日後の10月25日に御破算となる[50]。当時の大洋の外野陣は江尻亮長崎慶一中塚政幸とすべて張本と同じ左打者であり、その上癖のある張本が加われば秋山監督が苦労する、という当時の大洋の中部謙吉オーナーの気持ちもあってのことだった[49]。次いでこの25日中に三原は巨人の川上哲治監督に直接張本獲得を申し入れていたが、結局10月28日には日本ハム残留を発表する[49]。なお1974年には2022年でも球団記録である9打数連続安打を記録している[51]

次いで1975年の前期リーグ終了後には、ロッテが“祖国の英雄“として張本獲得に乗り出す。この頃、在日同胞の繋がりで東声会会長・町井久之との交友関係が深くなっていたことから、近鉄、ヤクルト監督時代に「黒い霧事件」への対応に追われていた日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど[52]、張本を無理やり放出しようとしていた。そのため、三原社長と娘婿である中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった[注 9]

前年のオフに大杉勝男白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている[53]。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという[54]。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため[55]、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した[56]。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという[43][57][58][59][60]

1975年オフには日韓親善野球に参加する「日本プロ選抜チーム」[61]の監督を務め、10月23日に同行するロッテと共に韓国へ出発した[62]。翌24日の試合では3本塁打を含む12安打を放ち、韓国アマ選抜を7-2で下した[61]


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