張本勲
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この頃、広島カープの当時の本拠地広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという[2][30][31]。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった[2][3][17][19]。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚いを食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである[13][32]。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」[32]、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった[15][32][注 2]
高校時代

甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業広陵高校への入学を希望したが[33]、中学時代の素行不良が理由で叶わず[2][13][34]、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校定時制に進学[19][35]。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であった[36]。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず[33]、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る[13]。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイスし[13][33]、自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見て、まず京都平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる[13]。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した[13][37]タクシー運転手の兄が月給2万3,000円から約半分の月1万円を仕送りしてくれた[16][33]。甲子園出場の夢を果たすことが何よりの恩返しと信じ、ひたすら野球に打ち込む[33]

浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け[19][33]、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。甲子園出場のチャンスは3年のの2回だけになった[33]

広島のみならず、「大阪でも一番喧嘩が強い」と名を轟かせ、他校のワルから決闘を申し込まれたが[38]、野球で忙しく相手をする暇はなかった[38]

1957年、2年の初夏に中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される[9][13]。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向[注 3]により、誘いを断る[13]。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。同年は秋季近畿大会で対外試合に初出場、県予選から13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。大会では準決勝に進み、海南高の宗邦夫に完封を喫するが、翌1958年春の選抜への出場を決める[33]。ところが一般生徒が恐喝事件を起こし、出場辞退を余儀なくされた[33]。高校同期にエースの池上栄一郎(法大)、捕手岡本凱孝がいた。

3年時の1958年夏の甲子園府予選は決勝で寝屋川高に辛勝、念願の甲子園出場を果たす。しかし大会直前に部室内での暴力事件が発覚[13]。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた[7]。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)[13]。張本は当時の野球部長の韓国人嫌いに端を発した差別としている[2]。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、後任の竹内監督との関係も良くなかったと回想している[39]

同事件によって甲子園の夢を絶たれ、自殺も考えるほどのショックを受けたが[18]、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集[注 4]が親身になって張本の相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。

この年、在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜されて渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む[2][9]。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した[13]。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した[40]。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り、一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる[40]


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