張本勲
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非常に腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテン相手に暴力沙汰を起こしたことがあり[2][106]、中学時代からヤクザのチンピラとケンカをしていたという[106]。現役時代には「野球はルールのあるケンカだ」と話す[107]など、気性が激しい一面があり、以下のような話がある。土橋正幸は、自身より5歳年下の張本に「マウンドでモタモタしていると、どやされたもんです」と話している[108]。ただ張本にとっては、土橋がプロ入りして初めて憧れて男として惚れた存在であるとして、ずっと「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}兄(あん)ちゃん」と呼んで慕っていた[109]村田兆治は、「内角を突くと睨みつけ、もう一度続けるとマウンドに向かってくる。同じ広島出身ということで可愛がってもらった」と話してる[110]。張本と村田はロッテ時代の2年間チームメイトだった。江本孟紀が阪神に在籍していたとき、対読売ジャイアンツ戦で両軍選手入り混じっての乱闘になった。グラウンドに出た江本のところに張本が近くに来て耳打ちで「おい、〇〇を殴れ」と言ってきたという。江本によると「張本さんは巨人の生え抜きじゃないという事でその選手に虐められていたらしい。外様だから嫌がらせを受けていたみたいで、チームメイトを自分が殴るわけにはいかないから、俺にやれと言ってきたんでしょう。」と話している[111]。江本は新人時代1シーズンだけ東映に在籍し、張本とチームメイトであった。愛甲猛は、ロッテの選手が乗ったバスがヤクザの車に道を塞がれたことがあって、張本が一人でバスを降りて怒ってるヤクザのとこへ行くと、「5?6分ほどでカタをつけて、何事もなかったかのようにバスに戻って来た」と話している[112]

江本孟紀が入団1年目(1971年)のキャンプのフリーバッティングに登板した際、大杉勝男白仁天に対して1球もストライクが入らなかった。江本は白に「バカヤロー、プロかお前」と怒鳴られ、投手コーチの土橋正幸からも怒られ、「次にストライクが入らなかったら辞めます」と言うつもりでいたところ、次の打者が張本だった。そのため足が震えたまま投球し、案の定ストライクにならなかったが、張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句も言わずに当てて、そのうちに江本はストライクが入るようになったという[111]阿川佐和子が「張本さんは江本さんを助けようとして?」と質問すると、江本は「それは本人には聞いてないです。どんなボールだって打てるぞっていうつもりだったのかも知れない。でも優しいところがある人だから。その件以降、僕はすぐ一軍に上がる事ができました」と述べており、プロに入ってからの恩人として土橋、野村克也と共に張本の名前を挙げている[111]

野村克也が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った[113]。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本はサンデーモーニングで「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。一方、野村は上記のいきさつを否定した上で、張本にささやき戦術をすると、張本が繊細すぎるためにバッターボックスでの立ち位置がなかなか定まらなくなり、結果的に試合時間がかかりすぎてしまうことから、張本へのささやき戦術をやめたとしている[114]

かつて、「人気のセ」「実力のパ」と言われ[115]オールスター戦で、「セ・リーグに負けるな」と本気で闘ったパ・リーグ選手の先頭に立っていたのは、張本であると野村克也は話している[116]

選手の才能とは別に人事の重要性も述べている[117]。自身の著書の中で監督業について、「私も現役時代11人の監督に仕えていたからわかるが、確かにヘボ監督はいる。野球ほど監督の采配ひとつで戦況や勝敗が180度変わるものはないだろう」と述べ[118]、「現役時代名選手だったのに、指揮官になったとたん、動揺して信じられないような采配をする監督がいる。本名を出すのは憚れるので、ここではN監督としよう。こちらが一打逆転の場面なのに落ち着いてベンチから見ていられない。ベンチ裏に引っ込んで小窓から覗きながらマネージャーにカウントを確認し、ここで逆転できないとどうしようと不安でたまらず直視できない。監督がこんな状態ならベンチにいる選手も戦う気になれない」、「T監督は冷静さを欠いて4回に起用した代打を8回に再び起用しようとした」、「O監督は延長戦で右と左のバッターを呼んでじゃんけんさせた。じゃんけんで勝った方を代打で使うと決めていたようだ。たまたま左バッターが勝ってサヨナラヒットを打ったから良いようなものの。何をいわんやである」と名前は伏せているが、3人の監督を例に出している[119]

若い頃はゴルフを「止まったボールを打って穴に入れるだけの誰にでもできるスポーツ」と馬鹿にし、さらに「打者がゴルフをやるとフォームが崩れる」という持論を持っていた。しかし日本ハム時代にオーナーに誘われて行うことがあり、巨人時代にはゴルフに夢中になっていた。チームメイトに中々勝てなかったため、引退後には悔しさからゴルフの練習にのめり込み、解説者になった頃には玄人並の上手さになった[120]
トラブル・事件

退場処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の山下健に体当たりした[121]。この行為で足立光宏が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。ダリル・スペンサーが「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事には至らなかった[121]。この後、監督の水原茂に「バットを使うな、素手で行け」と言われたということで、張本はこのことを「野球選手の商売道具であるバットを武器にするなと言うことだったと思う」と回顧している[122]

巨人時代の1976年、警察の取り調べを受けたことがある。4月16日の広島市民球場での広島戦の試合後、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である[17][123][124]。この広島での事件は、張本がセ・リーグの巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた[15][125]。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に受けた[15][125]。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一・二塁から山本功児がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、山本浩二の好返球と水沼四郎の好ブロックで二塁走者土井正三が本塁タッチアウトになった[123]。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた[123][125]。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした[123]。これは張本と原田治明黒江透修コーチらがブロックしことなきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ[123]。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。石を投げる輩もいた[124]。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた[123]。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った[17][124]。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた[15][123][124]。張本は傷害容疑で事情聴取されたが[124]、自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった[17]


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