張俊河
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5・16軍事クーデターでは『思想界』で「ピークに達した国政の混乱、慢性化した腐敗、麻痺状態に陥った社会的規律など、未曾有の危機から民族的活路を打開するための最後の手段」と一旦は支持する声明を掲載したものの、その後の軍政永続化・朴正煕政権の独裁化から批判に転じる。1965年日韓基本条約締結の際は、反対運動の中心的人物として活動し、1966年に大統領の名誉毀損の疑いで検挙され、服役した。1967年第7代総選挙で獄中から出馬・当選し、新民党の国会議員として政治活動も開始した[1]

1970年には『思想界』の5月号に金芝河の詩「五賊」を掲載し、これが原因で『思想界』は強制的に廃刊となる。1972年十月維新以降は、民主化運動に身を投じる様になり、1973年には「改憲請願百万人署名運動」を行い9回にも渡って投獄、1974年4月の民青学連事件では緊急措置1号違反の容疑で、懲役15年を宣告されたものの同年12月に体調不良により刑の執行が停止され、釈放される。

釈放後は、以前にも増して精力的に民主化運動に尽力したが、1975年8月17日京畿道抱川の薬師峰で登山をしている最中に、謎の死を遂げた。遺体は、の後ろにピッケルが打ち込まれたような大きな傷があり、高い絶壁から墜落した形で発見され、他殺説が浮上したが、警察は転落死と発表した。遺体は京畿道坡州のナザレ公園に埋葬され、1991年大韓民国建国勲章愛国章(勲四等)を追贈されている。2012年8月、京畿道坡州に「張俊河公園」ができ、前年の豪雨で崩壊した墓から張の遺骨はこちらに移葬された[10][11]

2013年1月10日、張俊河の息子の張豪権(朝鮮語版)が求めていた再審請求に基づいて緊急措置1号違反事件についての再審開始が決定。同月24日にソウル地方法院で行われた再審公判で緊急措置1号は違憲・無効であるとして無罪を言い渡された[12]

無罪判決以降、遺族たちは国家賠償訴訟を起こした。2020年5月、ソウル中央地方法院は緊急措置1号違反事件で拘束された張の遺族に国家として賠償する必要だという判決を下したが、韓国政府(当時は文在寅政権)は裁判所の判決に不服があるとして控訴したため、一部から不満の声が上がった[13]。最終的に2022年11月に政府は上告を放棄し、張の遺族に約7億8千万ウォンを賠償することになった[14]

なお、遺骨の移葬に伴い骨の検視が可能になったため、2012年以降に張の死が他殺か事故死かについての論争が再燃した。頭蓋骨骨折後に墜落したという他殺説と主張する法医学者もいれば[15]、大韓法医学会は墜落による頭蓋骨骨折で死去したと発表した[16]。特に神経外科医出身の国会議長の鄭義和(元ハンナラ党所属)は「多くの頭蓋骨損傷の患者を治療した経験から、遺骨を見た瞬間に他殺だと思いついた」などの他殺説を支持する主張を何度も表明した[17]。また、遺族側も他の部位の骨折が少ないから、他殺説を主張している[16]
親族

5人の子女がいる。長男の張豪権(朝鮮語版)は父親の運動が原因で迫害を受けた後、27年間マレーシアシンガポールなどの海外で生活しており、2004年ごろに韓国に帰国し、2005年に『思想界』の復刊を目処に『インターネット思想界』を創刊したが、サイトの投資者である知人の詐欺事件に巻き込まれた。2008年の第18代総選挙ではソウル市東大門区選挙区から無所属で立候補したが落選した。『思想界』も2010年の1年間だけ復刊した後、運営難により『インターネット思想界』だけが生き残った。また、その他には済州島に嫁いだ娘や米国に移住した子女もいる[18][19]
著書

民族主義者の道

評価

李承晩・朴正煕の両独裁政権下において言論活動での抵抗の場を作り、その自由な社会を創り上げようとする姿勢は内外でも評価され、1962年に韓国人としては初めてマグサイサイ賞を授与されている。だが一方で、李承晩政権下では言論統制に関わる部署にいた上、5・16軍事クーデターも当初は支持する姿勢を見せるなど、その余りに政治的な姿勢には「腐敗した言論人」という批判も少なくない。


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