張作霖爆殺事件
[Wikipedia|▼Menu]
さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と?介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長は田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した[5]

5月18日、アメリカから「日本は満洲に対して何らかの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示してほしい」という要求があり、また19日には、アメリカのケロッグ国務長官が記者団に対し、「満洲は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた九カ国条約を提示した。のちにケロッグ国務長官は、日本を非難したように曲解されたことは非常に遺憾である旨を松平恒雄駐米大使に述べた。斎藤恒関東軍参謀長の日記によると、24日、アメリカ公使が芳沢謙吉公使に、日本独力にて満洲の治安維持を為さんとするとせば重大なる結果を来す、と告げた[5]

5月20日から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、有田八郎アジア局長と阿部信行軍務局長が腰越の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。河本大作は「松平駐米大使からの報告に基づいて、田中首相がアメリカの輿論に気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらった」と発言し、石原莞爾中佐は「出淵(松平の誤り)の電報一本で参謀本部が腰を抜かしたのだ」と語ったという[5]

村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行したという。[7]

河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと土橋勇逸は証言している[8]
列車爆破張作霖が乗車していた列車

1928年6月4日の早朝、?介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯の京奉線と満鉄連長線の立体交差地点を10km/h程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300kgが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。

同乗していた日本軍将校の儀我誠也が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、張作霖の乗っていたのは8輌目であった[9]が、爆破によりその前側車輌が大破し、先頭方の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半は火災を起こした。8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我誠也が座って会談していたが、呉が張と儀我に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ、爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたが、この時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ大師府に入った[10]

車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は、爆発の直後四方八方にやたらと発砲し始めたが、日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した[11]

張作霖は大師府に着いて間もなく死亡し同乗していた呉俊陞は即死、他にも警備・側近ら17名が死亡した。同列車には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている[12]。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また、山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。
爆破計画

関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉、同第二大隊付の神田泰之助中尉、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉らが協力して行った。

現場指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に点火した。そのため、爆風で上から鉄橋(満鉄所有)が崩落して客車が押しつぶされた上に炎上したものである[13]

なお張作霖が乗車していた貴賓車は、かつて清朝末期に権勢を振るっていた西太后がお召し列車用として使用していたものであった[14]

河本らは、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突、死体を放置し「犯行は?介石軍の便衣隊ゲリラ)によるものである」と発表、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた。ところが3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わった[15][16]。一方、中国の戦犯収容所まで河本大作と行動を共にした平野零児が戦後出版した河本の伝記「満州の陰謀者」(1959年)によれば、奉天のアヘン中毒患者2人に日本軍の密偵になるよう持ち掛け、支度金50円を渡して3日夜半、現場の鉄道監視所まで秘密命令を受領に来させて射殺、「南方便衣隊」と認定できる紙片を懐にねじ込んだという[17]

なお、張作霖の側近として同列車に同乗して事件で負傷した張景恵は後に満洲国国務総理大臣に就任している。
爆破事件の直接首謀者

関東軍参謀 河本大作大佐(計画立案)

奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉(直接担当)

朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉(爆弾設置工事等)
[18]

事後調査爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)

林久治郎奉天総領事は6月4日の事件発生直後、内田五郎領事に対し、現場へ急行し奉天警察側との合同調査班を結成するよう命じた。内田は八ヶ代副領事らとともに、奉天交渉署関第一科長、安第三科長らとの合同現場検証チームを編成した。日本と奉天軍閥の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された[11]。事件当初から「日本軍の仕業」とする説が流布された。当初は国民党の便衣兵による犯行であるとされたこと[19]、また現場は張作霖の通過ということで奉天軍側は前日に警備の交替を日本側に申し出て奉天軍閥兵士50名で張が利用する京奉線側を守り[20]、日本軍は満鉄側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は薄らいだ[21]

奉天軍閥側は事件の発生した場所が本来日本側の管理区域であることから日本側の責任を主張したが、日本側は奉天軍閥側が自ら求めて張作霖の到着のために警備を行った点を主張した。6月15日には日中共同調査の報告書に調印されることとなっていたが、奉天軍閥側は折衝を重ねた経緯があるにもかかわらず当日調印を拒否した[22]

外務省外交史料館にある張作霖爆死事件という日本側の記録には事件の際に外部の爆弾を用いて張作霖のいる車両のみならず、その場所まで特定して暗殺することは不可能であり、予め車両の天井部分に用意した爆弾を走行中に機関車からの電気配線を用いて爆破させた方法が実施されたとする根拠が記されている[23]

6月30日、吉澤謙吉公使から外務大臣あて報告によると、フランスの「ジュルナルド・ド・ベカン」主筆ナシュボウから、張作霖の列車は車中に設置された火薬を電気仕掛けにて爆発させた。展望車の天井および暖房装置の中に約1トンの火薬を仕掛け列車がクロス地点を通過する際に前方(おそらくは機関車)より電気のスイッチを押した。展望車およびこれに連結する食堂車と寝台車が滅茶苦茶に壊れたが展望車の前の貴賓者が40尺余り前進し、張作霖は遭難の時この中にいた。火薬は通州にて列車組み立ての際に設置したものと認められる、と情報を得たとある。報告書にはフランスの情報の正確性を認めている[24]

現場調査を行った野党民政党代議士松村謙三は、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを奉天軍閥側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している[25]

事件直後現場に行って、事件に関わった安達隆盛から詳細な話を聞いた工藤鉄三郎(工藤忠。のち溥儀から「忠」名を与えられて改名)が急いで帰国し、小川平吉鉄道大臣に対し、口頭説明の後、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」でも説明し、田中首相にも口頭説明をした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef