凡例弥助
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不詳
ポルトガル領東アフリカ
死没不詳
別名ヤスケ、弥介、彌介、彌助[注釈 1]
主君織田信長
テンプレートを表示
弥助[注釈 1](やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人男性。宣教師の奴隷として戦国大名・織田信長に謁見して気に入られたことで、宣教師から信長に進呈された。信長が死去するまでの15か月間、信長に仕えた。
生涯琳派の1590年代の硯箱。蓋内側には黒人の召使が描かれている。
生い立ち『南蛮屏風』(狩野内膳画)。黒人の召使が描かれている。日本に到来したイエズス会宣教師たち。彼らに付き従う黒人の召使が描かれている。相撲遊楽図屏風(一部。堺市博物館所蔵)
左側の力士は、黒い肌に髷を結っていないざんばら髪や高い鼻など、明らかにそれ以外の人物とは異なる人種的特徴で描かれている。
弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた使用人[1]で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている[2]。
戦国時代、ポルトガルやスペインなどヨーロッパ人が日本を訪れるようになり、アフリカ出身の者たちも、従者または奴隷として連れてこられていた[3]。弥助もそのような一人と見られる。
ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した[4]後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。 天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた[5]。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳 - 27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている[6]。 天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという[1][注釈 2][7][5]。 イエズス会日本年報には、本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらった。また、京都の民衆の間では信長は弥助を気に入っていて、ゆくゆくは殿にするつもりなのではないかと噂さになっていた。[8]。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという[9]。 『家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[注釈 3]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている[10]。これは甲州征伐後の信長の視察に弥助が同行していた際の帰還途上に、信長一行が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものである。 天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際、弥助は明智光秀の襲撃に遭遇すると、信長の嫡男の織田信忠の宿舎であった妙覚寺にて、あるいは、信忠が籠城のために移動した二条新御所にて、明智軍と戦った末に投降して捕縛されたとされる。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣に弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、『インドのパードレ[注釈 4]の聖堂に置け』と命じた」という[5]。
日本へ
本能寺の変