弟子屈町
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降雪量 cm (inch)128
(50.4)102
(40.2)96
(37.8)51
(20.1)3
(1.2)0
(0)0
(0)0
(0)0
(0)1
(0.4)19
(7.5)101
(39.8)505
(198.8)
平均降水日数 (?1.0 mm)10.98.29.911.111.49.410.711.412.310.39.99.7125.2
平均月間日照時間109.3121.4143.8149.3157.3129.9111.7114.0122.0131.6115.6108.31,514.2
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[3]

町名の由来

アイヌ語の「テ?カカ(tes-ka-ka)」に由来するとされる[4][5]。この名称の解釈は諸説あるがアイヌ語研究者の山田秀三は多くの道内の地名における「テ?(tes)」(編み連ねたもの〔=やな〕)が岩盤が川をやなのように横切る様を指していることを指摘したうえで、当地で釧路川を横切る岩盤のことを指したのではないかとしている[4][5]。なお、後ろに「カ(ka)」(?の上)が2つ連なっていることについては「岩盤のところのその岸」という意味合いで2つつけたのではないか、としている[4]。このため、この解釈に沿った場合「岩盤が川を横切っているところの岸」というような意味合いとなる。
歴史

屈斜路古丹遺跡をはじめ、町内各所に縄文時代の遺跡が残されており、古くより人が暮らしていたことが分かっており、その子孫が現在のアイヌ民族と考えられる。

江戸時代には、テ?カカ(弟子屈=現在の弟子屈市街)やクッチャロ(屈斜路)などにアイヌが集落を形成して暮らしていたことが松浦武四郎などの記録に残されている。

佐野孫右衛門が政府の許可を受け、1876年(明治9年)から硫黄山の試掘を始める。翌年には採掘を開始したが収益が上がらず、硫黄山は函館の銀行家山田慎によって買収される。その後所有権は安田財閥安田善次郎に譲渡され、1887年(明治20年)から硫黄の採掘を開始。1888年(明治21年)には輸送のために北海道で二番目となる釧路鉄道が硫黄山-標茶間に敷設されたが、乱掘により資源が枯渇し、9年後の1896年(明治29年)には操業を停止した。

1880年(明治13年)には更科治郎が入植し、農業を開始した。1897年(明治30年)には村の大部分が皇室の御料林となり、1898年(明治31年)に農業指導者小田切栄三郎が着任。農業と畜産をおこない、多くの移民を受け入れた。

1903年(明治36年) - 熊牛村(現在の標茶町)から分村し、弟子屈外一村戸長役場を設置する。

1923年(大正12年) - 二級町村制を施行し、弟子屈村となる。

1943年(昭和18年) - 一級町村制施行、弟子屈村

1947年(昭和22年) - 町制施行、弟子屈町

1956年(昭和31年) - 標茶町へ一部分割。

1957年(昭和32年) - 標茶町の一部編入。

経済畑にロールベールが点在する風景(2022年7月、弟子屈町奥春別原野)
産業

主要産業は観光酪農摩周湖屈斜路湖摩周温泉川湯温泉が主要観光地で全国から多くの観光客が訪れる。本州からの移住者も多い。
金融機関

釧路信用金庫弟子屈支店

北洋銀行弟子屈支店

農協

摩周湖農業協同組合(JA摩周湖)

北海道農業共済組合(NOSAI北海道)弟子屈家畜診療所

郵便局

弟子屈郵便局(集配局)

川湯郵便局(集配局)

美留和郵便局(集配局)

屈斜路郵便局

川湯駅前簡易郵便局

宅配便

ヤマト運輸:道東主管支店摩周センター

佐川急便:釧路営業所(釧路市)

公共機関
警察

弟子屈警察署

川湯駐在所


消防

釧路北部消防事務組合消防本部

弟子屈消防署

川湯支署


病院

JA北海道厚生連 摩周厚生病院


姉妹都市・提携都市
国内

鹿児島県日置市1983年(昭和58年)11月 - 東市来町(当時)と弟子屈町の間で友好都市盟約締結2005年(平成17年)10月28日 - 市町村合併により東市来町は日置市の一部となり、合併後の日置市と弟子屈町の間で友好都市盟約再締結

海外

商丘市中華人民共和国河南省

泗水県中華人民共和国山東省

浜州市浜城区中華人民共和国山東省


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