弘田三枝子
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その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』[19]を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した[20][21]

1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する[22][23]
平成以降

2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売[24]。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。

2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。

2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去[25]。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された[1]。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという[26]。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった[27]。同年1月2日に「日本歌手協会新春12時間歌謡祭【第4部】」[28]内で放送され、2019年11月12日に開催された第46回日本歌手協会歌謡祭夜の部での「夢みるシャンソン人形」が最後のテレビ出演に[29]、同年12月8日名古屋市星神社で催された御本殿竣功奉告祭が最後のライブになった。

2020年11月20日第62回日本レコード大賞特別功労賞受賞[30]
評価

小説家小林信彦は、「戦後の17年は無駄ではなかった」「大天才」と、弘田に賛辞を贈った[要出典]。

1991年発行の評論本『日本のポピュラー史を語る』(村田久夫・小島智著)によれば、「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出した」と評価されている[31]

ポップスやジャズなどジャンルの垣根を超えた歌声を評価された反面[32]、歌唱スタイルの変化に対して好意的ではない見解を示す向きもあった[33]

1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、活動後期は小規模のライブがメインでメディア露出が減っていた。そのため、訃報時にテレビ局の若手制作者がその存在をよく知らず、話題として取り上げない判断をしたワイドショーもあった[34]。取り上げたスポーツ紙等も、スキャンダルを前面に押し出す内容がほとんどを占めた。追悼メッセージを寄せた人物もほぼ60歳代以上に限られた。

山下達郎は、「戦後最高の力量をもつシンガーのひとりの方でございますのに、こんなご時世もあってでしょうかね、メディアにはほとんどのぼりません。ホントに残念なことであります」と追悼するメディアが少ないことを残念がり、『悲しきハート』については、オリジナル歌手のスーザン・シンガーよりも「はるかにすぐれたバージョン。16歳とは思えない素晴らしい歌唱力」と絶賛している[35]

桑田佳祐「存在自体がポップ。ビート感満載のポップスで笑顔・ダンスをテレビ画面いっぱいに表現していた。チャーミングでみんなの憧れでとにかくナンバーワンだった。(一連のカバー曲は)明るい未来へ向かうアンセムのようだった」[36]

中尾ミエ「同時期にデビューした戦友。すごいパワーで、この人にはかなわないと思った。『人形の家』からはパンチがなくなった」[33]

菊地史彦「もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう」[37]

このような弘田に対する訃報時のマスメディアの対応に対し、何のリスペクトもない、と業を煮やした都築響一は、自身の番組「SUPERDOMMUNE 『都築響一のスナック芸術丸』」にて、2020年8月13日に7時間にもわたる追悼特番を組んだ[38]
ディスコグラフィ
シングル

#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲規格品番
東芝レコード
11961年
11月A面子供ぢゃないの漣健児J.Schroeder岩井直溥JP-5089
B面悲しき片想い
21962年
2月A面すてきな16才N.SedakaJP-5100
B面夢のスウィート・ホームP.Anka
31962年
4月A面カモン・ダンスみナみカズみJ.Madara
D.WhiteJP-5108
B面恋のエアメイル漣健児G.Pitney
A.Schroeder
41962年
6月A面かっこいいツイストJ.Mengozzi林一JP-5119
B面一度だけのあやまちみナみカズみJ.Schroeder
51962年
7月A面寝不足なの永六輔中村八大JP-5125
B面ブルージン・ブルース
61962年
9月A面かっこいい彼氏漣健児H.Hunter
P.Spector大沢保郎JP-5148
B面シェーナ・シェーナJ.Sauter
J.Brandon岩井直溥
71962年
10月A面リトル・ミス・ロンリーJ.Schroeder大沢保郎JP-5161
B面ヴァケーションH.Temkin
81962年
11月A面ミコのジングル・ベルホセしばさきJ.PierpontJP-5160
B面ブルー・クリスマス三田恭次B.Hayes
91963年
1月A面ゆるして ゆるして漣健児E.Miller
D.Williams
R.YountJP-5184
B面涙がいっぱいN.Paramor
101963年
2月A面想い出の冬休みH.Hunter
M.BarkanJP-5199
B面マック・ザ・ナイフB.BrechtK.Weill前田憲男
111963年
3月A面明日をみつめて青島幸男桜井千里森岡賢一郎JP-1548
B面そっと一人に小林郁夫
121963年
5月A面渚のデイト漣健児B.Davis
T.Murray大沢保郎JP-5216
B面星影で愛して
131963年
7月A面悲しきハートみナみカズみJ.SchroederJP-5236
B面月影のレナート漣健児A.Cortez
141963年
9月A面涙のゴスペルJ.Steward
R.MoselyJP-5248
B面悲しみがいっぱいみナみカズみJ.Schroeder
151963年
12月A面私のベイビー漣健児P.Spector
E.Greenwich
J.BarryJP-5264
B面ティーンエイジ・クレオパトラB.Ross
161964年
3月A面ダンケシェーン加茂亮二B.Kaempfert前田憲男TR-1050
B面涙のためいき漣健児A.Zanetis
171964年
5月A面若い街角岩谷時子原六朗大沢保郎TR-1071
B面気ンなるあいつ前田武彦三保敬太郎
181964年
6月A面恋と涙の17才漣健児J.Medora
D.White大沢保郎TR-1080
B面いつでもあなたをみナみカズみP.Anka
191964年
8月A面ひとつぶの真珠安井かずみ宮川泰TR-1110


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