引き揚げ
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各地からの引揚状況(1950)[1]

引き揚げ(ひきあげ、英語: Repatriation)とは、1945年昭和20年)8月15日日本第二次世界大戦連合国に降伏したことを受け、日本の外地[注釈 1]日本軍占領地[注釈 2] または内地ソ連軍被占領地[注釈 3] に生活基盤を有する一般(民間)日本人が日本の本土内地)への帰還を指す[2][注釈 4]。引き揚げの対象となった者は引き揚げ者と呼ばれ、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされた。

台湾など比較的順調に進んだ地域もあれば、侵攻してきたソ連軍や現地軍民による襲撃や抑留、飢餓などで犠牲者が出た地域もある。中華民国支援のため不安定要因たりえる日本人の本国送還をアメリカ合衆国が重視するなど、各勢力の思惑が影響した[3]

また、終戦当時の在日外国人の出身国及び地域への送還事業も引揚援護事業と並行して行われた[4]
開戦前後の引き揚げ

1941年(昭和16年)を通じて日米関係は極端に悪化。アメリカに在住する在留邦人日系人などの引き揚げと日本に在住する在日アメリカ人などの送還を同時に行うことになり、同年10月15日に第一陣の龍田丸横浜港を出航。ホノルルサンフランシスコを経て、同年11月14日に860人を乗船させて帰還した[5]。続いて第二陣の大洋丸がホノルルから447人を[6]、第三陣の氷川丸カナダから363人を乗船させて帰還した[7]。一方でオランダ領東インドからは高千穂丸が864人を乗船させて帰還した[8]。さらに12月に入ると浅間丸イギリス領マラヤ英領北ボルネオに向けて[9]、再度、アメリカに向けて龍田丸が派遣された[10]が、途中12月8日真珠湾攻撃で日米が、マレー作戦で日英が開戦したため途中で引き返すこととなった。
ポツダム宣言の受諾と引き揚げ事業の法的根拠

1945年(昭和20年)8月14日日本政府は全面的なポツダム宣言受諾を連合国に伝達し、8月15日に昭和天皇日本国民に向けた玉音放送を通じて日本が降伏する旨の『終戦に関する詔書』を発表した[11]。これにより日本政府は、ポツダム宣言の条項により以下の義務を負うことになった[12]
連合国による占領の受け入れ(第7項)[12][13]

植民地、占領地の放棄(第8項)[12][13]

軍の武装を完全解除(第9項)[12][13]

戦争犯罪人に対する処罰に応ずること(第10項)[12][13]

無条件降伏の宣言(第13項)[12][13]

軍人・軍属

軍人軍属の復員[注釈 5] については、ポツダム宣言第9項が法的根拠となり[4][14]日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ ? ポツダム宣言 第9項
在外邦人

一般の在外邦人が全面的に帰還しなければならないかについては、具体的規定はなく終戦当時において法的位置づけは不明であった[4]


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