引き揚げ
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軍人軍属と在外邦人は1945年(昭和20年)9月2日の『日本政府宛一般命令第1号』によって、それぞれの軍管区の連合国司令官のもとに降伏することになった。その結果、軍人・軍属および一般人を含め全ての日本人は、各軍管区ごとの軍隊の支配下に入った[25][26]。終戦当時の5軍管区それぞれの引揚対象者の人数は以下のとおりである[24][26]
中国軍管区:311万6000人(47%)(旧満洲地区を除く中国本土、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナ[25][24][26]

ソ連軍管区:161万4000人(24%)(旧満洲地区、北緯38度以北の朝鮮樺太千島列島[25][24][26]

東南アジア(イギリスならびにオランダ)軍管区:74万5000人(11%)(アンダマン諸島ニコバル諸島ビルマタイ国、北緯16度以南のフランス領インドシナ、マライ、スマトラジャワ小スンダ諸島ブル島セラム島アンボン島カイ諸島、アル諸島、タニンバルおよびアラフラ海の諸島、セレベス諸島、ハルマヘラ諸島、オランダ領ニューギニア[25][24][27]

オーストラリア軍管区:13万9000人(2%)(ボルネオ、イギリス領ニューギニア、ビスマルク諸島ソロモン諸島[25][24][27]

アメリカ軍管区:99万1000人(15%)(日本国委任統治諸島、小笠原諸島および他の太平洋諸島、日本国に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮、琉球諸島フィリピン諸島[25][24][27]

各軍管区で日本人の取り扱いにに大きな違いがあり、まさに生死を分けるものといえた[27]。ただし、ごく一部の例外を除いて、満州と北朝鮮などの悲惨な状況の地域以外でも、治安の動揺、経済基盤の喪失、その他の事故によって引揚者は須らく苦難の中にあり、引揚の途中で命を落とす者も少なくなかった[25]
送出人員

日本国内からの送り出し人数は1953年の統計では一般送出が126万5091人、強制送還が3万7633人の計130万2724人で大別すると以下のような在日外国人がいた[19][20]
朝鮮出身者:105万756人(81%)、カイロ宣言によって独立を約束されていた朝鮮半島の出身者[4][20]

中国人:6万8311人(5%)、連合国としての中国本土出身の中国人のほか、カイロ宣言によって中国復帰が約束されていた台湾出身者、旧満州出身者を含む[4][20]

南西諸島出身者:18万265人(14%)、南西諸島出身者のうち、口之島を含む北緯30度以南の鹿児島県及び沖縄県民は米軍施政下に置かれ、日本本土に在住していた南西諸島出身者は出身地へ送還された[4][20]

南洋群島及び小笠原諸島出身者:旧南洋諸島はポツダム宣言によって米国の信託統治領となり戦前より居住していた日本人と原住民のうち原住民のみ帰還が許された。小笠原諸島は北緯30度以南の南西諸島と同様に、米軍施政下に置かれた。ただし、戦時中に日本本土に疎開者のうち、欧米系島民のみが帰還が許され、日本人の小笠原諸島への帰還は1968年の本土復帰を待つ必要がある[4][20]


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