弁証法
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したがって、近代哲学においては、アリストテレスのそれに代わる、新しい形而上学(第一哲学)、ひいてはグランドセオリーの再構築が、1つの大きな課題となった。(ヘーゲル等の段階では、これは「Wissenschaft」(ヴィッセンシャフト、学・学知)と呼ばれるようになるが、念頭に置かれているものは同じである。)

英国ではそうした「拙速な枠組みの先決」を避け、経験的・漸進的な学習・解明を重視する経験論感覚論が主流になったが、ヒュームによって、それを突き詰めると懐疑論へと行き着くことが示されてしまった。他方で欧州大陸では、古典力学の勃興期であった当時の状況を背景に、合理主義的に形而上学・グランドセオリーの再構築が試みられたが(大陸合理論)、独断論の域を出なかった。

イマヌエル・カントは、大陸合理論の理性主義的基調を引き継ぎつつ、他方で「経験によって認識が始まる」という経験論的発想も加味しながら、認識の共通の基盤・土台となっている(とカント等が考えた)「理性」自体を吟味するという逆転の発想(コペルニクス的転回批判哲学)によって、経験的領域と、非経験的・実践的・形而上学的領域を、(「理性」を共通の基盤・土台としつつ)区別・共存させるという方法で、形而上学やグランドセオリー的枠組みの適正な再生・回復の試みを示そうとした。

このカントの二元論(経験・感覚的「現象」と非経験・非感覚的「物自体」)的な批判哲学的枠組みの再編・乗り越えを、「弁証法」(dialectic)の賞揚と共に志向したのが、フィヒテシェリングヘーゲル等、ドイツ観念論に分類される人々である。
ドイツ観念論による弁証法的回答

ドイツ観念論と一口に言っても、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル等の間には、思想内容にかなりの差異があり、互いに批判し合う関係にすらある。そんな彼らに共通しているのは、「ドイツ観念論」(German idealism)という分類・表現に象徴的に表されているように、「ネオプラトニズム」→「ドイツ神秘主義」(エックハルトクザーヌス等)と続く神秘主義の系譜で継承されてきた、「一者」及び、それとの「合一」への志向・願望である。

彼らはこうした志向の下、カントの二元論的な批判哲学的枠組みを、より主体的な観点から乗り越え、「一者」へと至る道程・枠組みとして組み立て直すべく、それぞれに模索・説明していくことになった。そしてこれは、総じてドイツ観念論の枠組みが、カントの枠組みよりも、経験的・主観的・直観的傾向がより強く、また「先決」的性格・内容が弱いことを意味する。言い換えれば、一見、経験論的でありながら、他方で「一者」を遠方・背後・根底に見つつ、それによって保証された調和的な道程を弁証法的に上っていくという点で、野放図でも懐疑論的でもない、そんな枠組みとしてドイツ観念論の枠組みは位置付けられることになる。

ヘーゲルの場合、こうした「人間の主観(意識・理性)によって掴まれないものは認めない」という姿勢は、ヘーゲルの『法の哲学』の序文における、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」の一文に象徴的に表現されている。

ミネルヴァの梟(ふくろう)」の例えで有名な、この序文でも端的に述べられているように、ヘーゲルに言わせれば、哲学は、常に現実を後追いしているに過ぎない。現実の歴史がその形成過程を終えてから、ようやくそれを反映するように観念的な知的王国としての哲学が築かれる(「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」)のであって、「哲学の到来はいつも遅すぎる」し、決して「あるべき世界」を教えてくれるようなものでもない。哲学は現実を越えた「彼岸的なもの」を打ち立てることができないし、そんなものは「一面的で空虚な思惟の誤謬の中」にしかない。

つまり、カント等に見られるように、その時々で、あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもないし、条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。したがって、本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔であり、避けられなくてはならない。

そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。

つまり、哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。

そこで、人間の現実認識が対立・媒介を通して展開し、絶対知に到達していく過程のダイナミズムの内実に着目する、「ヘーゲルの弁証法」と呼ばれるような考え方が、持ち出されることになる。

(なお、こうした論理の厳密な形式性を巡っては、学問的にそれを重視・洗練させていく流れ(フレーゲラッセル、前期ウィトゲンシュタイン等、数学に近接し数理論理学となり(数学の論理主義形式主義ゲーデル不完全性定理によって一定の限界が示される)、また分析哲学へとつながる)と、逆に、生の人間・社会の存在様式に寄り添いながら、その形式の根拠を問い直していく流れ((ヘーゲル、マルクス、)フッサール現象学)、マルティン・ハイデッガー実存主義構造主義ポスト構造主義ポストモダニズム)等)に、西洋思想が大きく分岐していくことになる。そして、そういった形式的基礎付けを巡る議論とは別に、現実に役立つ経験主義実証主義自然科学応用科学実学)、あるいはプラグマティズム等の流れも存在している。)
フィヒテ・シェリング等の弁証法

この節の加筆が望まれています。

ヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法と呼ばれているものには、『精神現象学』の中で順序立てて詳細に述べられている「意識の弁証法」と、一般に単純化・形式化された形で言及されている「弁証法(的)論理学」の2種類がある。両者は抽象的には同じものだとも言えるが、叙述のされ方に差異があるので、以下、それらを別々に説明する。
『精神現象学』における弁証法

ヘーゲルが求めるのは、形式主義・操作主義によって獲得される表層的・外形的・空虚な個々の「体系知」(science)とは異なる、自然的実在のありのままの本質的規定・法則性(つまりは、絶対者・真理)の概念的把握である哲学、すなわち「学知」(Wissenschaft)である。そこで、人間の精神(意識)が、己の性質に則って、己にとっての「真・有」と「知」のズレを修正していく自己措定運動(「意識の弁証法」「意識の経験の学」)を経ながら、どのように「学知」(Wissenschaft)の完成へと到達していくのか、それを順序立てて叙述・描写するのが『精神現象学』である。

それは以下のような段階を経る[4]

意識(対象意識)[注釈 1]

感覚的確信

知覚

(知覚的)悟性


自覚(自己意識)[注釈 2]

理性

精神

精神

宗教

絶対知

矢崎美盛は、こう書いている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。—矢崎美盛著『ヘーゲル 精神現象論』大思想文庫 第21、岩波書店、1936年

高山岩男は、こう書いている。自覚の現象学は自己自身の意識、即ち自己認識を種々の人生経験により考察する現象学である。従って自覚の現象学の内容は人間界である。自然の事物の知識を事とする現象でなく人間界に於ける自覚を事とする経験である。こゝに於ける知は行って知る知であり、自覚の経験は本来的に実践的な生活行動である。前述の意識の段階は姿を変えて自覚の中に内在する。物は知覚的に知られる物ではなく同時に行動の対象としての物である。我は知覚や悟性の自我ではなく行動する自我である。自覚は行動我の自覚である。—高山岩男著『辨證法入門』アテネ文庫 第53、弘文堂、1949年
弁証法(的)論理学

ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。


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