建長寺
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建長寺
境内
所在地神奈川県鎌倉市山ノ内8
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分54.44秒 東経139度33分19.25秒 / 北緯35.3317889度 東経139.5553472度 / 35.3317889; 139.5553472 (建長寺)座標: 北緯35度19分54.44秒 東経139度33分19.25秒 / 北緯35.3317889度 東経139.5553472度 / 35.3317889; 139.5553472 (建長寺)
山号巨福山(こふくさん)[注釈 1]
宗派臨済宗建長寺派
寺格大本山
鎌倉五山第一位[1]
本尊地蔵菩薩
創建年建長5年(1253年[1]
開山蘭渓道隆[1]
開基北条時頼[1]
正式名巨福山建長興國禪寺
別称巨福山建長禪寺
建長僧堂
札所等鎌倉二十四地蔵9番 - 11番
鎌倉三十三観音霊場28番
文化財絹本淡彩蘭渓道隆像・大覚禅師墨蹟法語規則・梵鐘(国宝
山門・法堂・絹本著色釈迦三尊像ほか(重要文化財
公式サイトkenchoji.com
法人番号2021005001871
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建長寺(けんちょうじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と号する。

鎌倉時代建長5年(1253年)の創建で、本尊地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼開山(初代住職)は南宋禅僧蘭渓道隆[2]、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位[3]。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。
歴史[ソースを編集]蘭渓道隆像(国宝)
創建[ソースを編集]

建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。

創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には建長3年(1251年)から造営が始められ、同5年(1253年)に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については建長元年(1249年)ないし2年からとする異説もあるが、おおむね建長元年(1249年)頃から造営の準備がなされ、同5年(1253年)に完成したとされる。建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである[4]。また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。

開山の蘭渓道隆は中国・宋末の禅僧で、寛元4年(1246年)、33歳で来日した。はじめ筑前国博多に着き、京都に一時住んだ後、宝治2年(1248年)に鎌倉入りした。建長寺が創建されるまでは常楽寺(鎌倉市大船に現存)に住した。当時の日本には、すでに半世紀以上前に建立された建仁寺(京都)や寿福寺(鎌倉)などの禅宗系寺院があったが、当時これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であり、純粋禅の道場としては建長寺は、聖福寺(北九州)などに次ぐ古さを誇るとされている。伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。蘭渓道隆の禅風は中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであった。道隆は弘長2年(1262年)京都の建仁寺に移ったが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰。その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐国(山梨県)に流されたこともあったが、のちに許されて鎌倉に戻り、弘安元年(1278年)4月、建長寺住持に再度復帰。同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じた。66歳であった。
その後[ソースを編集]

その後の建長寺は正応6年(1293年4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊、炎上。から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。だが、続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されたが、1923年関東大震災でも大きな被害を受けている。
伽藍[ソースを編集]

創建当時の建物は失われたとはいえ、総門・山門・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は、創建当時の面影を残すものとされる。なお、地形の関係で総門 - 山門間の参道は斜めになっている。
総門[ソースを編集]

天明3年(1783年)の建立。1940年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである[注釈 2]。総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが[1]、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。

総門

山門(三門)[ソースを編集]

安永4年(1775年)の上棟で、2005年重要文化財に指定されている。「三門」とも表記する(重要文化財指定名称は「建長寺山門」[5])。

三間一戸の二重門で[注釈 3]、上層屋根はこけら葺き形銅板葺きとする。棟梁は建長寺大工の河内長兵衛である。下層はすべて吹き放しで、扉は設けていない。禅宗様建築は一般に木柄の細いのを特色とするが、この門は柱などの各種部材が太く豪快であるのが特色である。門の中心に位置する2本の柱からは前後左右に虹梁(こうりょう)を架け、虹梁上に大瓶束(たいへいづか)を立てて鏡天井を支える。上層の正面中央には唐破風を設け、ここに「建長興国禅寺」の扁額を掛ける。上層内部には宝冠釈迦如来像を中心に十六羅漢像、五百羅漢像(銅造)などを安置する(上層は非公開)。関東大震災では上層の屋根が破損したが、これは本来、こけら葺き用に造られていた小屋組に江戸時代末期に重い銅板を葺いたことが原因であり、門の主要部材の被害は軽微であった[6][7]

建長寺三門(2009年)

巨福山建長寺三門

建長寺三門に掲げられた扁額

仏殿[ソースを編集]

重要文化財。寄棟造で単層裳階が付く。


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