建艦競争
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技術の発達は戦艦の性能を急速に向上させ、程なく超弩級戦艦さらには高速戦艦が登場するようになった。当然建造費は高騰し、時に年間8隻もの戦艦・巡洋戦艦を起工するという凄まじい建艦競争は、英独双方に過大な財政負担を与えつつあった。この状況は両国にとって望ましいものではなく、軍縮を目指した政治的な働きかけも行われた。しかし対独二倍を目標とするイギリスと、十五割以上の優勢は不可とするドイツの主張は結局相容れず、両国の対立は深刻さを増していった[注 6]

英独建艦競争推移(戦艦) 太字は最初のド級艦計画年度イギリスドイツ
隻数トン数艦級隻数トン数艦級
1901年3隻47,205tキング・エドワード7世級2隻26,416tブラウンシュヴァイク級
1902年2隻31,470t3隻39,624t
1903年5隻70,990tキング・エドワード7世級
スウィフトシュア級1隻13,191tドイチュラント級
1904年2隻33,745tロード・ネルソン級2隻26,382t
1905年1隻18,110tドレッドノート2隻26,382t
1906年3隻56,400tベレロフォン級2隻37,746tヴェストファーレン級
1907年3隻58,500tセント・ヴィンセント級2隻37,746t
1908年1隻19,680tネプチューン3隻68,424tヘルゴラント級
1909年6隻129,250tコロッサス級
オライオン級3隻72,256tヘルゴラント級
カイザー級
1910年4隻92,000tキング・ジョージ5世級3隻74,172tカイザー級
1911年4隻100,000tアイアン・デューク級3隻77,388tケーニヒ級
1912年5隻137,500tクイーン・エリザベス級3隻82,996tケーニヒ級
バイエルン級
1913年5隻140,000tロイアル・サブリン級1隻28,800tバイエルン級
1914年3隻84,000t1隻28,800t

英独建艦競争推移(巡洋戦艦)計画年度イギリスドイツ
隻数トン数艦級隻数トン数艦級
1901年
1902年
1903年
1904年
1905年3隻52,065tインヴィンシブル級
1906年
1907年1隻19,370tフォン・デア・タン
1908年1隻18,470tインディファティガブル級1隻22,979tモルトケ級
1909年2隻52,540tライオン級1隻22,979t
1910年3隻63,770tインディファティガブル級
ライオン級1隻24,988tザイドリッツ
1911年1隻28,430tタイガー1隻26,600tデアフリンガー級
1912年1隻26,600t
1913年1隻26,947t
1914年1隻31,000tマッケンゼン級


イギリス大艦隊

ドイツ大洋艦隊

最終的には第一次世界大戦勃発の一因と後世に評価される程の両国の軍拡は、周辺諸国にも波及した。特に英独双方と領海を接するフランスはこれを座視するわけにはいかず、1900年に「装甲艦28隻整備構想」を提唱して1920年までに28隻の装甲艦(戦艦)を建造することとした。日露戦争で壊滅的打撃を受けたロシア帝国も追随し、1908年から1918年までに隔年毎4隻の主力艦を起工する再整備計画を策定した。より国力の劣るイタリアや、想定戦場が狭く強大な海軍力を必要としないオーストリア=ハンガリー帝国、さらにスペインギリシャオスマン帝国等も次々と弩級戦艦を計画・建造していった。米大西洋艦隊(1907年)

海の向こうでは、アメリカが英独建艦競争に反応していた。ちょうど太平洋方面に勢力を拡大する過程にあったこともあり、1903年発足した将官会議において「1919年までに戦艦48隻を中核とする世界第二位の海軍建設」が提唱された。この基本方針は後にダニエルズ・プランに発展する。

そして日露戦争に勝利し世界第3位の海軍国に躍進した日本もまた、対立が深まりつつあったアメリカに対抗するためにより強力な海軍を求めていく。しかし日本は戦利艦となった旧ロシア戦艦の再整備にリソースを取られて弩級戦艦時代に乗り遅れてしまう。次第に拡大する列強諸国との戦力差に焦る日本はその格差を埋めるため、最後の外国製主力艦となる「金剛」をイギリスに発注するとともに、新たな基本方針となった八八艦隊の実現に向け建艦を進めていく。
南米ABC三国間における建艦競争詳細は「南アメリカの建艦競争」を参照

A(アルゼンチン)・B(ブラジル)・C(チリ)の南米主要三国は潜在的な対立関係にあり、パワーバランスの維持に長年腐心してきた。その最中に起きた建艦競争は、規模は小さいながらも典型的なケースとして世に知られる。

先陣を切ったのはブラジルで、1904年度に戦艦3隻を含む海軍拡張計画を成立させた。とはいえ、中小国の国力では急速な実現は困難で、計画案は逐次修正されていく。その過程で「ドレッドノート」就役の情報がもたらされた。

同艦により、既存の主力艦が過去のものとなったことを認識したブラジルは、早期に弩級艦を戦列に加えることで、地域的な優位確立と列強への対抗が可能であると判断し、弩級戦艦建造の方針に変更した。この結果実現したのがミナス・ジェライス級戦艦2隻である。

同艦の就役は、南米地域のパワーバランスを大きく崩すことになる。長年のライバル国であったアルゼンチンは直ちにこれに反応し、自らも弩級戦艦保有を決定した。建造されたのは「ミナス・ジェライス」を大きく上回る戦力を持つ「リバダビア」級2隻である。同艦により優位を崩されたブラジルは、対抗として三隻目の弩級戦艦建造を決定し、「リオ・デ・ジャネイロ」を発注した。超弩級戦艦の時代に建造された同艦は14門もの12インチ砲を搭載するが、結局は超弩級艦の方が有利であると判断され売却されることとなる。手を挙げたのはオスマン帝国であった。

両国の建艦に対して、最後に動いたのがチリである。同国は弩級艦に見切りをつけ、超弩級艦の建造を選択した。アルミランテ・ラトーレ級と名付けられた2隻の戦艦は、そのまま就役すれば南米における最強艦として君臨することになるため、劣勢を認識したAB両国は三隻目の戦艦取得をそれぞれ決定した。

次第に過熱しつつあった三国間の建艦競争であったが、第一次世界大戦の勃発により情勢が激変する。三国はいずれも自国で戦艦を建造する能力は持っておらず、外注に頼っていた。建造を請け負う列強全てが戦争に突入したことで、これ以上戦艦を獲得することができなくなったのである。そればかりかブラジルは「リオデジャネイロ」を、チリに至ってはラトーレ級を二隻ともイギリスに接収されてしまう。こうして三国の建艦競争は、外的要因により強制終了されることとなった。

終戦後、「リオデジャネイロ」はそのままイギリス海軍の手に残り、「ラトーレ」はチリ海軍に返された。二番艦「コクレン」は大戦中空母「イーグル」に改装されたこともあってイギリス海軍のものとなったため、最終的に三国の保有戦艦は弩級戦艦2隻ずつと超弩級戦艦1隻でパワーバランスが均等化した。情勢が安定したことと、ワシントン海軍軍縮条約の影響で新たな戦艦取得が困難になったことで建艦競争は鎮静化し、三国の戦艦5隻は相争うことなくそれぞれ天寿を全うした。
第一次世界大戦前後における列強、特に日米間の建艦競争日本戦艦長門米戦艦コロラド

第一次世界大戦は欧州に空前の惨禍をもたらしたが、直接国土が戦場とならなかった新興列強である日米両国には戦争特需の福音をもたらした。アメリカの戦艦10隻と巡洋戦艦6隻から成るダニエルズ・プランは当初想定の計画年度を1917?1921年度からさらに2年も縮め、わずか3年で全ての艦を建造する大計画となり、さらに1919年にはほぼ同規模の次計画さえ構想された。もっとも1917年の世界大戦参戦によってアメリカは戦時体制に移行し、中小型艦優先に組み替えられたことで主力艦の建造にはブレーキがかかり、計画の本格的再開は戦後を待つことになる。

日本もまた戦争特需で財政的な裏付けが得られたことから、長年の悲願であった戦艦8隻と巡洋戦艦8隻から成る八八艦隊実現の見通しがたった。1916年度の八四艦隊案を皮切りに1918年度の八六艦隊案1920年度の八八艦隊案と段階的に計画は推進され、主力全艦の予算が成立した。


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