建御名方神
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^ 「熊子」「熊古」とも表記される。
^ 普賢菩薩(諏訪明神の本地仏)と同一視される金剛薩?別の姿
^ ここでは龍蛇神としての諏訪明神と比定されている。
^ ただし上代語の甲類乙類の問題上宗像からの転化はあり得ないとする説もある。
^ 事代主神も風土記には登場しない。
^ 「思ふにこは何等根拠なき虚構の神話ならんと思はる。即ち事代主命の従順たるに対して、頑強に反対する一神を要するは、説話を興味あらしむる上に極めて必要の事なれば、我国神話の大いに発達するに及びて、自ら附け加へられたる一挿話に過ぎざるべし。命がかかる犠牲的人物として神話上に表はれ給へる事は、一に武勇に秀で給へるによれど、一面より云へば恐惶の外なき次第と云ふべし。宜なる哉、書紀は全然之を採らざりし事を。
又思ふ、こは中臣氏が自家の奉ずる鹿島神の威を高めんとて作為したるものにあらざるか。…此神話は命が如何なる智謀も、武略も我が皇室に対し奉りては、抵抗するを得ざるを教へん為のものにあらざるかとも思はる。」
^ 「大己貴神の国譲説話がもともと出雲に於ける古伝であつた如く、建御名方神のそれの原型は、信濃(中でも講義の諏訪を中心とする地方)に発生して、前者と等しく出雲人(必ずしも両者の系統を一とする要はない)の伝承を母胎とするものながら、その初めは相互の間に何の交渉をも持たなかつたのであらう。然るに上記の事由により、地方的文化現象の一として、恐らくは神社そのものの信仰に先んじ、信濃から大和へと移入さるることとなると、年諸の経過とともにいつしか根幹たる出雲伝説、その中でも之が中心たる大己貴の神のそれに統一されてしまつたので、その間には多分数次の自然的や人為的淘汰を経て、徐々に内容上の変化をも生じたことであらう。(中略)その中で前段たる力競べの譚は、いかにも優勝者たる武甕槌神の武勇を頌へて天孫系の威光を輝かさうとする意図が明白で、勝敗の懸隔余りに甚だしいあたりは、かの野見宿禰当麻蹴速との角力に関する物語と同様の仕組になり、従つて之に対するのと同様の気持を起ささる。(中略)要するに、此の神話はその初め諏訪地方に起つて他と関係なく、又劣敗者としての性格は、本来の属性でなかつたと考へたいのである。」
^ 現在の箕輪(みのわ)町の地名はその名残か。
^ ただし「神氏は金刺氏分家」という立場はあくまで金井らの論であり、『阿蘇氏系図』から直接出てくるものではない[196]
^ ただしこれは国史に見られる「前八坂刀売神」の「前(きさき)」を「まえ」と読まれ、または「前宮」を「(き)さきの宮」と読まれたことから生じた誤認と考えられる[238]。古文献には「前宮二十の御社宮神(ミシャグジ)」とあることから、前宮に祀られていた神をミシャグジとする説がある[239][240]
^ なお、「須波神」はタケミナカタではなく、ミシャグジ[242]または守矢神(洩矢神)[243]とする説もある。
^ 古くは御柱祭の年に次回の御柱となる巨木を選定していたが、現在は御柱の見立てを御柱祭の前年に行い、神事の後に薙鎌を取り外し持ち帰る。
^ なお、諏訪においても熊、猿、カモシカ山鳥岩魚の狩猟はタブーとされていた。
^播磨風土記』には、稲籾を鹿の血につけると一夜のうちに苗が生じたという伝承がある[256]
^ 「信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗として鹿・鳥なんどを手向くるも此のよしにや。大権の方便は凡夫知るべからず。(中略)凡そは殺生をせずして、仏法の教への如く戒行をもまぼり、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。」[264]
^ 「故宿人天 同証仏果」「故宿人天 則証仏果」「故宿人中 同証仏果」というバリエーションもある。
^ 禅定智慧

出典^ a b c 諏訪大社上社本宮(平凡社) & 1979年.
^ a b c d e f 『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 107-111。
^ a b 「先代旧事本紀 巻第四 地神本紀」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1898年、243-244頁。
^ a b 「先代旧事本紀 巻第三 天神本紀」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1898年、222-223頁。
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、82頁。
^ 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、695-696頁。
^ a b c 金井典美「「諏訪大明神絵詞」梵舜本と権祝本の異同対照」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、218-277頁。
^ “諏方縁起絵巻”. 東京国立博物館デジタルライブラリー. 2019年10月16日閲覧。
^ 山下正治, 「訓読・諏訪大明神絵詞(一)(<共同研究>関東周辺の歴史と文学の研究)」『立正大学人文科学研究所年報 別冊』16号、2006年、9-18頁。
^ a b c 塙保己一編「続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年、494-539頁。
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、84-85頁。
^  北畠親房『神皇正統記』。ウィキソースより閲覧。 
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、48頁。
^ 三重県教育委員会. “ ⇒日本書紀私見聞(道祥自筆本)・日本書紀私見聞(春瑜自筆本)”. 守ろう!活かそう!三重の文化財. 2019年1月31日閲覧。
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、47頁。
^ 『日本書紀私見聞 春瑜本』貴重図書複製会、1938年。
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、117-122頁。
^ “ ⇒国護りと天孫降臨の神話ー御手形石ー”. JAみなみ信州. 2018年12月1日閲覧。
^ 『南信伊那史料 巻之下』佐野重直編、1901年、55頁。
^ 宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、119頁。
^ 赤羽篤「小野神社」『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』谷川健一編、白水社、1987年、379-380頁。
^ “ ⇒生島足島神社について”. 生島足島神社公式ホームページ. 2018年12月2日閲覧。
^ “ ⇒大宮諏訪神社”. 長野県神社庁. 2018年12月2日閲覧。
^ 諏訪市史編纂委員会 編「第八節 「諏訪信重解状」と『諏方大明神画詞』」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、811-814頁。
^ a b 宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、91-93頁。
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