康熙帝
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台湾を収併した1683年[7]ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:ヴァシーリー・ゴリツィン)時代のロシア帝国が、満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し(清露国境紛争)、康熙28年(1689年)にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまではいえない。

1670年代ジュンガル部ガルダン・ハーン(?爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争)、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い(英語版))、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。40歳の康熙帝

18世紀初め、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海グシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラブタンが同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサを制圧、チベットのラサン・ハン(英語版、中国語版)を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い(英語版))。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功した。康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍した。ガリーのガルトク(フランス語版)の知事カンチェンネー(中国語版、ドイツ語版)とラサンハン軍にいたツァンのポラネー(中国語版、ドイツ語版)らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。

康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後統治処理は次代の雍正帝の手に委ねられることになる。

康熙60年(1721年)、朱一貴(中国語版)が台湾阿里港(現在の里港郷)で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍(中国語版)とその族弟藍鼎元(中国語版)を派遣し、翌康熙61年(1722年)に平定した。この年の正月、在位61年の宴会で機嫌よくした康熙帝は大臣たちを私室に招き、機嫌よく思い出話をした。「私が10年在位した時は20年在位するとは思わなかったし、20年在位した時は20、30、40年と在位するとは思わなかった。50の時も60年も在位するとは思いもかけなかった。今はもう61年である。歴史によれば、70歳に達した帝王は3人しかいない。なんと私は恵まれているのだろう。私はいつも臣下に寛大にふるまい、大臣たちの身の保全には特に気をつけた。だからお前たちもみな、年を経て幸福に暮らし、名誉をともなっていられるのだ。こうやって向かい合っている君臣がも白くなっているとは楽しいことではないか。」

また、得意の戦争や6回の南方巡航を回顧した[8]

康熙61年11月8日、康熙帝は冷風に当たり高熱を出し、その6日後の11月14日に崩御した。順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。

1691年に国内でキリスト教を邪教として扱い宣教師を追放した動きがあったが、この際康熙帝は寛容な態度をとり、「西洋人は我が国の暦法を助け、軍事面においても大砲を造った。これらの誠心を認め、布教事業の禁止はしない」と1692年に命令を下した。しかし、1704年にローマ法王が中国に圧力をかけようと派遣した鐸羅との謁見で中国に対する『禁約文』を出されて態度が変わった。ローマ法王のこのような行為は中国への内政干渉であると立腹し、中国の法律に違反した宣教師らを国外に追放、さらに鐸羅をマカオに追放するなどとした[9]
北方民族の王者

康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン・イ・アバ(muran i aba、木蘭囲場。現在の承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河に離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝乾隆帝にも受け継がれていく。
国内政策

康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。また、丁銀(人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した(盛世滋生人丁)。これは地丁銀制へとつながる。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「黄河の治水」と「漕運の整備」を六度にわたる「南巡」をほど熱心に行った[要校閲]。この南巡は費用は全て宮廷から支出するという、徹底したものだった。

文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれる[10]

康熙帝の時代から十哲の一人として朱子(朱熹)を祀るようになり、『朱子全書』『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。『明史』の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている(全巻完成は乾隆4年(1739年))。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図『皇輿全覧図』を作成させた。

文字の獄をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。
后妃と子女

康熙帝の第一子は康熙6年 (1667) 旧暦9月 (康熙帝が満13歳の年) に生まれて承瑞と名づけられ、第二子・承祐、第三子・承慶ともに名の頭に「承」の字を冠した[11]が、しかし、この三子はともに夭折した。「承」の字は不吉だとして、第四子には満洲語で「賽音察渾」と名づけたが、これもやはり夭折した。第五子は保清と名づけられ、続いて第六子に允?がうまれ、その下に更に三人 (長華、長生、萬黼) あったが、この三人はまたも夭折し、第五子・保清と第六子・允?のみが成人した。これがのちの大阿哥と二阿哥である (「阿哥age」は満洲語で「皇子」の意[12])。従って、康熙帝の第一皇子 (大阿哥) と第二皇子 (二阿哥) は、それぞれ第五子、第六子ということになる。[13]

二阿哥・允?の後に生まれた兄弟は同輩として「胤」で統一されるようになり (三阿哥・胤祉、四阿哥・胤メc…)、大阿哥・保清ものちに胤≠ニ改められた。但し、四阿哥・胤 (後の雍正帝) が践祚すると、「胤」は避諱の対象となり「允」に改められた。[13]なお、便宜上、ここでは大阿哥・胤∴ネ下をすべて「胤」で統一した。

康熙帝には最終的に35人の子と20人の娘があったが、成人したのは子が24人、娘が8人であった。[13]そのうち、九人の皇子がのちに帝位をめぐって暗闘を繰り広げ、それを制して践祚したのが四阿哥・胤 (後の雍正帝) である。一連の暗闘は「九子奪嫡」と呼ばれ、また、当時多くの者が予期しなかった胤ヱH祚に関する種々の噂は、民間に「雍正簒位」として拡まった。


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