康熙帝
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1722年12月20日[4]
順治帝
母庶妃トゥンギャ氏(孝康章皇后
后妃孝誠仁皇后
孝昭仁皇后
孝懿仁皇后
陵墓景陵 (ambalingg? munggan)
年号康熙 (elhe taifin): 1662年 - 1722年
愛新覚羅胤(雍正帝)

康熙帝
中国語
中国語 康熙帝

発音記号


満洲語
満洲文字 ????
??????
???????
アブカイElhe taifin Hvwangdi
メレンドルフElhe taifin H?wangdi
モンゴル語
モンゴルキリル文字Энх Амгалан хаан
モンゴル文字 ????
????????
?????

康熙帝(こうきてい)は、の第4代皇帝は玄Y(げんよう、Yは火偏に華)。満洲人、君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。

西洋文化を積極的に取り入れ、太宗とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、?淵の盟を締結させた最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常はの高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖世祖に続いて3番目に贈られている。
即位青年時代の康熙帝

順治帝の第3子として生まれる。疱瘡にかかったことを口実に城外に出され、乳母の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄Yは祖母である孝荘文皇后により厳格にしつけられた。順治18年(1661年)、病状が悪化した順治帝は、玄Yが疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として皇太子に指名した。順治帝は同年に崩御し、玄Yは8歳で皇帝に即位した[5]。一説によると宮中で育てられず、北京のつましい地区で育てられたということであり、順治帝が崩御して宦官が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら、人間形成の大事な時期に庶民の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである[6]。順治帝の遺命により、即位後はスクサハソニンエビルンオボイの重臣4人による合議で政権運営が行われた。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除し、16歳の時に親政を始めた。
三藩の乱

康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明永暦帝を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王と同格の親王爵位を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南広東福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。

康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。

予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離してを建国し、鄭氏台湾鄭経もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。そして、毎日数百も及ぶ報告に対して適切に対応した。呉三桂たちは「満州人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地(中国語版)の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。
外征と晩年避暑山荘の康熙帝銅像

台湾を収併した1683年[7]ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:ヴァシーリー・ゴリツィン)時代のロシア帝国が、満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し(清露国境紛争)、康熙28年(1689年)にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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