(その他略)
逸話狩りをする康熙帝
上述のように狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている[21]。
外見は背格好は中以上、漢人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の漢人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる[22]。
能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている[22]。
康熙帝(北京故宮博物院蔵)
学問を非常に好み、孔子の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学・科学・天文学をよく学んだ[23]。
フェルディナント・フェルビーストと湯光先を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた[24]。
呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した[25]。
モンゴルの王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍とモンゴルに隣接する遼東省の軍を合流させた混合軍を送った。モンゴルの王は自軍の情勢も兵力集中も隣国の協力も得られずに敗北し、兄弟と王子が俘虜となった[26]。
飢饉の時に諸省の税を免除して、米倉を解放した。被害の大きい地域には米と金を分配した。また、六部を新築するために北京に集まっていた貧民を使役し、彼らの困窮を救った。中国史で起こりがちであった農民反乱を、こうして未然に防ぐことに成功している[27]。
南巡する康熙帝
康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した、その時、身分の低い者でもそばに行くことができ、彼らに親切で慈愛のある態度を取った。そして官吏に満足しているかを尋ねた[28]。
生活は質素であり、食事は普通のもので満足した。また離宮を建設した時、豪勢さを反映するものは見当たらず、質素であった。衣服も豹の毛皮と一般的に用いられるものだった[29]。
皇子の教育にも熱心であり、歩き始めるとすぐに馬術・弓術・銃術を教えた。また、皇子たちが過保護にされるのを好まず、労働・労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるように躾けた[30]。
明の残党狩りをかわして75歳まで生き延びていた崇禎帝の第5子である朱慈煥を捕らえると「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」として凌遅刑によって処刑。さらにその子と孫を含む一族をことごとく処刑して、明の皇統を根絶やしにしている[31]。隠棲していた前王朝の末裔を60年以上も経ってから族滅したことで汚点を残す結果となっている。
登場作品ブーヴェ『康熙帝伝』より
小説
『鹿鼎記』:武侠小説。映画・ドラマ化もされている。
テレビドラマ
康熙帝を主人公とするドラマ
『康熙王朝』2001年
『皇帝の恋 寂寞の庭に春暮れて(中国語版)』2016年