康熙帝
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皇十四子・胤?[16][17]:乾隆20年に薨去、諡号・恂勤郡王。[15]
トゥンギャ(?佳)氏愨恵皇貴妃:康熙帝の母方従妹、孝懿仁皇后の妹。
グワルギャ(瓜爾佳)氏惇怡皇貴妃
皇十八女:夭逝。
ジャンギャ(章佳)氏敬敏皇貴妃
皇十三子・胤祥:雍正8年に薨去、諡号・怡賢親王。[15]
皇十三女:和碩温恪公主。
皇十五女:和碩敦恪公主。
ニオフル(鈕?禄)氏温僖貴妃:孝昭仁皇后の妹。
皇十子・胤?:康熙48年に敦郡王、雍正2年に剥奪、乾隆2年に輔国公、同6年に卒去。[15]
皇十一女
王氏順懿密妃
皇十五子・胤?:雍正9年に薨去、諡号・愉恪郡王。[15]
皇十六子・胤禄:乾隆32年に薨去、諡号・荘恪親王。[15]
皇十八子・胤?:夭逝。
陳氏純裕勤妃
皇十七子・胤礼:乾隆3年に薨去、諡号・果毅親王。[15][18]
ウラナラ氏恵妃
承慶:第三子、夭逝。[13][15]
皇長子・胤:康熙37年に直郡王、同47年に剥奪、雍正12年に卒去。[15]
ゴロロ(郭絡羅)氏宜妃
皇五子・胤祺:雍正10年に薨去、諡号・恒温親王。[15]
皇九子・胤?:康熙48年にベイセ、雍正3年に剥奪。[15]
皇十一子・胤?:夭逝。[15]
マギャ(馬佳)氏栄妃
承瑞:第一子。夭逝。[13][15]
サインチャフン(賽音察渾):第四子、夭逝。[13][15]
皇三女:固倫栄憲公主。
長華:第七子、夭逝。[13][15]
長生:第八子、夭逝。[13][15]
皇三子・胤祉:雍正10年に薨去、諡号・誠隠親王。[15]
ワンリュハ(瓦劉哈)氏定妃
皇十二子・胤?:乾隆28年に薨去、諡号・履親王。[15]
ボルジギン(博爾済吉特)氏宣妃
ダイギャ(戴佳)氏成妃
皇七子・胤祐:雍正8年に薨去、諡号・淳度親王。[15]
衛氏良妃
皇八子・胤?:康熙61年に廉親王、雍正4年に剥奪。[15]
ヘシェリ氏平妃:孝誠仁皇后の妹。
胤?:夭逝。[15]
ボルジギン(博爾済吉特)氏慧妃
高氏襄嬪
皇十九子・胤禝:夭逝。
皇十九女:夭逝。
皇二十子・胤?:乾隆23年に卒去、諡号・簡静ベイレ。[15]
陳氏熙嬪
皇二十一子・胤禧:乾隆23年に薨去、諡号・慎靖郡王。[15][19]
セヘトゥ(色赫図)氏謹嬪
皇二十二子・胤祐[20]:乾隆8年に卒去、諡号・恭勤ベイレ。[15]
石氏静嬪
皇二十三子・胤祁:乾隆50年に卒去、諡号・誠郡王。[15]
陳氏穆嬪
皇二十四子・胤祕:乾隆38年に薨去、諡号・誠親王。[15]
ウラナラ氏通嬪
皇十女:固倫純愨公主。
董氏端嬪
皇二女:夭逝。
ヘシェリ(赫舎里)氏僖嬪
ジョーギャ(兆佳)氏貴人
皇五女:和碩端静公主。
ゴロロ(郭絡羅)氏貴人:宜妃の妹。
胤?:夭逝。[15]
皇六女:固倫恪靖公主。
袁氏貴人
皇十四女:和碩愨靖公主。
ナラ氏貴人
萬黼:第九子、夭逝。[13][15]
胤?:夭逝。[15]
ナラ氏貴人
陳氏貴人
胤?:夭逝。[15]
張氏庶妃
皇長女:夭逝。
皇四女:夭逝。
王氏庶妃
皇十六女:夭逝。
劉氏庶妃
皇十七女:夭逝。
ニオフル(鈕?禄)氏庶妃
皇二十女:夭逝。
(その他略)
逸話狩りをする康熙帝
上述のように狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている[21]。
外見は背格好は中以上、漢人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の漢人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる[22]。
能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている[22]。
康熙帝(北京故宮博物院蔵)
学問を非常に好み、孔子の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学・科学・天文学をよく学んだ[23]。
フェルディナント・フェルビーストと湯光先を臨時の会議に呼び出し、中国天文学と西洋天文学のどちらが正しいかを確かめるため訊問し、西洋天文学の正しさを実証させた[24]。
呉三桂など多くの漢人の反乱に悩まされたが、不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下した。適切な対応をしたため、数で勝る漢人を懐柔すること成功した[25]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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