府官制
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おそらく、百済ではこれら中国将軍号にもとづいて開府し、府官を設置するということはなかった[3]
百済の国王幕府の属僚

 百済の国王幕府の属僚[4]時期人名既保有官職百済王 私署 官職任命追認官職(爵号)任命要請事由国家
久尓辛王五年(424年)張威長史使節劉宋
蓋鹵王十八年(472年)余礼?馬都尉・長史冠軍将軍・弗斯侯未詳使臣北魏
蓋鹵王十八年(472年)張茂司馬龍驤将軍・帯方太守未詳使臣北魏
東城王八年(490年)高達長史行建威将軍・広陽太守建威将軍・広陽太守先例・使臣・邊効邊夙著・勤労公務南斉
東城王八年(490年)楊茂司馬行建威将軍・朝鮮太守建威将軍・朝鮮太守先例・使臣・志行清壱・公務不廃南斉
東城王八年(490年)会邁参軍行宣威将軍宣威将軍先例・使臣・執志・周密・?致勤効南斉
東城王十七年(495年)慕遺長史行龍驤将軍・楽浪太守龍驤将軍・楽浪太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)王茂司馬行建武将軍・城陽太守建武将軍・城陽太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)張塞参軍行振武将軍・朝鮮太守振武将軍・朝鮮太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)陳明?行揚武将軍揚武将軍使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉

百済では、府官である長史司馬参軍余礼を除き、みな漢人官僚にのみ認められている。余礼は弗斯侯であり、おそらく余礼の上位に左賢王右賢王が存在していた[5]458年の段階で左賢王・右賢王がなくなってしまっていた可能性もなくはないが、同じく蓋鹵王の治世であり、それがみられなくなるのは、475年以後のことであり、長史を冠した余礼は必ずしも当該期の百済内部ではトップではない[5]。長史は本来、将軍府の府官のトップである百済王の次に位置づけられるべきものであるが、余礼の場合は必ずしもそのようには理解できない。一方、余礼以外の長史はみな漢人官僚で、これら漢人官僚の帯びた太守号は、百済独自の王号に比肩する楽浪太守、帯方太守もあるが、おおよそ、百済独自の王号より低位である。楽浪太守を帯びた慕遺は長史でもあるが、それは将軍号でいえば龍驤将軍に過ぎず、邁羅王、沙法名はそれよりも上位である征虜将軍である。高達は、長史を冠しているが、これも将軍号でいえば四品の建威将軍に過ぎず、当該期の百済において、長史は必ずしも百済国内において府主である百済王に次ぐ地位ではない[5]。それに次ぐ司馬、参軍も同様で、厳密にいえば、必ずしも百済国内における支配層のトップではなく、むしろ、王権中枢は、王号を帯びた百済王族・百済貴族だった。このことは当該期の百済が、百済王を府主とし、その配下に長史、司馬、参軍を恒常的に配し、それによって百済を統治するという支配体制ではないことを示している[5]鈴木靖民が指摘するように、長史、司馬、参軍の活動から、百済において漢人官僚は外交で大いに活躍したであろうが、問題なのは漢人官僚が百済王を府主とする長史、司馬、参軍の府官として常時、百済国内において活動していたか、百済国内の支配体制が百済王を府主とする府官制をとっていたかである[5]。しかし、百済国内の支配体制において長史、司馬、参軍が常時設置されていたわけではないのであって、あくまでもそれは対中国外交においてのみ臨時に冠したに過ぎない[5]
府官の出自

425年に使節を派遣するが、そのときの使者曹達についてわかっているのは名前だけであるが、それは人物を推測するうえで手がかりとなる。中国的なは曹、が達である。当時の日本列島における人名は、稲荷山古墳出土鉄剣の「乎獲居(ヲワケ)」や江田船山大刀にみえる「无利弖(ムリテ)」のように、姓を持たず名のみであり、それは二から三文字程度で書き表されており、このような型に当てはまらない曹達は、外国からの渡来人であろう[6]倭国中国と直接的な外交関係に取り組んだのが421年、曹達がに派遣されたのが425年であり、中国からではなく朝鮮半島から渡来したとみることもできるが、曹達ら府官となった人物はその名前の型から中国系の人物とみなすべきである。当時の高句麗人や百済人の名前は、「牟頭婁(ムトウル)」や「賛首流(サンシュリュウ)」などであり、姓が記されていない点で中国系とは異なる[6]。当時の朝鮮半島には中国系の人々が多くいた。314年頃に高句麗西晋の朝鮮半島における出先機関である楽浪郡帯方郡を滅ぼすが、楽浪郡・帯方郡の中国系の役人知識人がすべて西晋に帰国できたわけではない[6]。多くは高句麗に吸収、高句麗の支配機構の整備に利用され、高句麗が府官制をもっとも早くに導入できたのには、そうした背景がある。帯方郡からそのまま南に避難すると百済に行き着き、百済もそうした中国系の人々を国家形成に活用した。それは百済における府官のあり方からも明らかであり、百済で採用された府官の名をみると、百済の余礼のように百済王と同じ余姓を有する王族とみられる人物もいるが、多くは中国的な人名であり、424年張威472年張茂495年張塞はいずれも張姓であり、同族の可能性がある。495年王茂も楽浪郡に勢力を張った楽浪王氏の子孫とみられる[6]4世紀から5世紀初頭にかけて倭国への渡来人の到来があったとされるが、中国系の人々が倭国に渡来したとしても不思議ではない。中国系の人々は朝鮮権力に取り込まれながら世代を重ね、朝鮮の権力者にとって中国系知識人のもつ知識は魅力的であり、また中国系の人々にとっては知識は生き残るために必須の手段であり、世代を超えて継承された。そうした知識を身につけながら、5世紀初頭に倭国にまで到達したのが曹達であり、倭国もまた中国の知識を重視した。高句麗や百済が中国系知識人を活用するなか、自国が後れを取ることに危機感をもっていたであろうし、曹達以前にも同様の人々を取り込んでいた可能性もある[6]。中国系知識人は倭国の王の直属の側近として権力者と政治的に結びつくことで、自らの立場を確保しようとし、倭国王にとっても、中国系知識人との直接的な関係は日本列島の豪族たちに対するアドバンテージになり得るものとして歓迎され、倭国王と中国系渡来人は日本列島で共依存的な関係となり、讃と曹達は、それぞれの立場から5世紀に府官制を制度的に取り入れたといえる[6]
脚注^ a b 河内 2018, p. 65-66
^ a b c 井上直樹『百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 211〉、2018年3月30日、114頁。 
^ 井上直樹『百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 211〉、2018年3月30日、133頁。 
^ 李文基『百済内朝制度試論』学習院大学史学会〈学習院史学 41〉、2003年3月20日、21頁。 
^ a b c d e f 井上直樹『百済の王号・侯号・太守号と将軍号 : 5世紀後半の百済の支配秩序と東アジア』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 211〉、2018年3月30日、133-134頁。


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