束髪の大流行により、1890年代ごろには銀座の木村屋で、束髪のマゲの形に似せてクルクルと生地を巻いて中に干しぶどうを入れた甘い「束髪パン」なるものを発売していた[3]。 明治十八年に、従来の結髪に油を大量に使う日本髪が衛生上問題があり、不経済かつ不便で文化的ではないとして医師の渡部鼎らが「日本婦人束髪会」を設立。束髪普及のために配布したパンフレットによって全国に普及したが、流行の常として結い方が複雑化するうちに整髪料を多用したり長い間髪形が崩れるのを嫌って洗髪をしないことが多くなりかえって衛生上に問題が起こった。新日本髪(1953年) 昭和に入るとそのような西洋偏重の傾向に疑問が持たれ、大量の整髪料を使わず簡単に結える「新日本髪
束髪は「文化的」か
庇髪庇髪の女性(1911年)
いわゆる「ア・ラ・ポンパドゥール」という王制フランスの宮廷で起こった流行の中で誕生した髪形を真似たものであり、その影響で前髪を高く膨らませる形が発展して大正ごろ髪全体がターバンでもかぶったように膨らんで見える「庇髪(ひさしがみ)」へと変遷していった。明治30年代ごろ、女優の川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、女学生が多く用いたことから、庇髪は女学生の異称ともなった。 大正時代、新派の女優たちが始めた束髪のひとつ。それまでの束髪には欠かせなかった庇部分のボリュームを出すための詰め物を入れず、鬢付け油も使わない自由度の高い髪型[4]。新派女優の山川浦路の広すぎる額に似合う髪型として、天平時代の結髪を真似て、夫で俳優の上山草人が考案したとされる[5]。
女優髷
脚注[脚注の使い方]^ a b c d 束髪(読み)そくはつ
^ 束髪図解一関市博物館
^ ⇒第三編 明治時代後期『パンの明治百年史』パンの明治百年史刊行会、1970年, p218
^ 「やさしい化粧文化史入門編 第11回 自由なヘアスタイルのはじまり」ポーラ文化研究所
^ 上山草人著『蛇酒』
外部リンク
婦人束髪会豊原国周 (植木林之助, 1885)
束髪案内渡辺鼎著 (女学雑誌社, 1887)
日本西洋束髪独結び堀口音二郎編 (秩山堂等, 1886)
西洋束髪秘伝 : 附・化粧秘伝路易達爾克 (ルイ・ダルク) 著[他] (博聞社, 1886)
婦人束髪の始『明治事物起原』石井研堂著 (橋南堂, 1908)
美容術講習録. 第3巻 洋風束髪(新婦人協会, 1926)
日本髷か束髪か宮本百合子、「サンデー毎日」1923(大正12)年4月29日号
⇒婦人束髪会の初期の議論について?髪結との関連から飯田未希、立命館大学、政策科学 23?3,? 2016