広瀬淡窓
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文政11年(1828年・47歳)、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿[6]

文政13年(1830年・49歳)、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる。

天保8年(1837年・56歳)、日柳燕石を訪問し、燕石は八百余家を救ったと書き残している。

天保13年(1842年・61歳)、幕府から永世名字帯刀を許さる。

嘉永元年(1848年・67歳)、「万善簿」一万善を達成。

嘉永6年(1853年・72歳)、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す。

安政2年(1855年・74歳)、塾を広瀬青邨に委ねる。

安政3年(1856年(安政3年・75歳)、『淡窓小品』完成。

同年10月、墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛けた。

同年11月1日、死去。遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬。


大正4年(1915年)、正五位を贈られる[7]

著作
作品

「桂林荘雑詠」(けいりんそうざつえい)
『遠思楼詩鈔』に掲載されている
七言絶句である。淡窓26歳のときの作で、以下の4首からなる。2首目を「休道の詩」、3首目を「諸生に示す詩」とも通称する。これら4首のうちの特に2首目は詩吟として読まれることもある [8]

(1)
幾人負笈自西東  幾人か笈を負ひて(いくにんかきゅうをおいて) 西東自りす(さいとうよりす)。
両筑双肥前後豊  両筑(りょうちく) 双肥(そうひ) 前後の豊(ぜんごのほう)。
花影満簾春昼永  花影(かえい) 簾に満ちて春昼永く(すだれにみちてしゅんちゅうながく)。
書声断続響房?  書声(しょせい) 断続して房?に響く(だんぞくしてぼうろう[注釈 2]にひびく)。
(2)(休道)
休道他郷多苦辛  道ふを休めよ(いうをやめよ) 他郷苦辛多しと(たきょうくしんおおしと)。
同袍有友自相親  同袍友あり(どうほうともあり) 自ら相親しむ(おのずからあいしたしむ)。
柴扉暁出霜如雪  柴扉暁に出づれば(さいひあかつきにいずれば) 霜雪の如し(しもゆきのごとし)。
君汲川流我拾薪  君は川流を汲め(きみはせんりゅうをくめ) 我は薪を拾はん(われはたきぎをひろわん)。
(3)(諸生に示す)
遙思白髪倚門情  遙かに思ふ(はるかにおもう) 白髪門に倚るの情(はくはつもんによるのじょう)。
宦学三年業未成  宦学三年(かんがくさんねん) 業未だ成らず(ぎょういまだならず)。
一夜秋風揺老樹  一夜(いちや) 秋風(しゅうふう) 老樹を揺がし(ろうじゅをゆるがし)。
孤窓欹枕客心驚  孤窓(こそう) 枕を欹てて(まくらをそばだてて) 客心驚く(かくしんおどろく)。
(4)
長鋏帰来故国春  長鋏帰りなん(ちょうきょうかえりなん) 故国の春(ここくのはる)。
時時務払簡編塵  時時務めて払へ(じじつとめてはらえ) 簡編の塵(かんぺんのちり)。
君看白首無名者  君看よ(きみみよ) 白首にして名無き者を(はくしゅにしてななきものを)。
曾是談経奪席人  曾て是れ(かつてこれ) 経を談じて席を奪ひし人(けいをだんじてうばいしひと)。
書籍

著書は以下を主に約120作ある。

『遠思楼詩鈔』

『析玄』

『義府』

『迂言』 - 『
日本思想大系38 近世政道論』(岩波書店)に収録。

『懐旧楼筆記』

『約言』

『淡窓詩話』など

『淡窓全集』(全3巻) - 日田郡教育会編。思文閣の刊行で1971年に復刻出版。

長壽吉・小野精一編『廣瀬淡窓旭荘書簡集』弘文堂書房 1943年5月

大分県先哲資料館 編『大分県先哲叢書 廣瀬淡窓 資料集 書簡集成』大分県教育委員会 2012年3月


詩集・日記の注解

『広瀬淡窓・
広瀬旭荘』 工藤豊彦 〈叢書日本の思想家 35〉明徳出版社、1978年

『広瀬淡窓・広瀬旭荘』 岡村繁訳注 〈江戸詩人選集 第9巻〉岩波書店、1991年

『広瀬淡窓』 林田慎之助訳著 〈日本漢詩人選集 15〉研文出版、2005年

『現代語訳 淡窓詩話』 向野康江訳注、葦書房、2001年

『廣瀬淡窓の詩 遠思樓詩鈔評釈』(全4巻)、井上源吾編著、葦書房、1996年

『廣瀬淡窓日記』(全4巻)、井上源吾編訳注、弦書房、2005年

史跡長福寺広瀬淡窓旧宅(南家)
長福寺(ちょうふくじ)
寛永8年(1631年)に創建された豆田上町にある真宗大谷派の寺院である。山号は照雲山。長福寺本堂は、国の重要文化財に指定されている。この寺の僧である法幢に詩経を学び、後に倉重湊のすすめによって寺境内にあった学寮(長福寺学寮)を借りて咸宜園の前身となった塾を開いた。講義を行っていた学寮は1943年に解体撤去され、学寮跡地には旧日田愛育園(現在の月隈こども園)の園舎が建てられた。2012年10月に行なわれた旧園舎保存工事に伴う発掘調査において、学寮の礎石が確認されている[9]
咸宜園(かんぎえん)
広瀬淡窓が設立した私塾。国の史跡に指定されている(詳細は咸宜園を参照のこと)。咸宜園跡の周囲を淡窓町(大字淡窓)という。1916年咸宜園跡の一部、秋風庵の北隣に淡窓図書館が建てられたが、1989年(平成元年)に700メートルほど東の上城内町に移転。
桂林荘公園(けいりんそうこうえん)
淡窓の私塾は始め「桂林荘」として設立されて、その跡地が公園になっている。ここに淡窓の坐像と彼の漢詩「桂林荘雑詠」4首の詩碑もある。
長生園(ちょうせいえん)
日田市中城町にある広瀬家の墓所である。元は、広瀬三右衛門(淡窓の弟)の別邸があった地で「長生園」はその別邸の名前である。後に淡窓が墓所に選び、淡窓自身の後に青邨や林外の墓が置かれた。1948年(昭和23年)1月14日に「廣瀬淡窓墓(ひろせたんそうのはか)」として国の史跡に指定された(後述の廣瀬淡窓旧宅の追加指定により「廣瀬淡窓旧宅及び墓」に名称変更)[10]
廣瀬淡窓旧宅
廣瀬資料館として一部一般公開している北家と、魚町の通りをはさんで南に位置する南家からなる。旧宅内の建物の大半は、淡窓の弟である第6世当主廣瀬久兵衛時代の建物である。淡窓が23歳のころに、はじめて講義を行った建物(南家土蔵)は南家にあったが、現存しない[10]。すでに国史跡に指定されていた「廣瀬淡窓墓」(長生園)に追加指定する形で、2012年(平成24年)に「廣瀬淡窓旧宅及び墓」として国の史跡に指定された[10]2015年4月24日には、「近世日本の教育遺産群?学ぶ心・礼節の本源?」の構成文化財として日本遺産に認定される。
脚注[脚注の使い方]
注釈


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