広瀬淡窓
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[4][5][2]

※日付は旧暦。年齢は数え年。

天明2年(1782年)4月11日:豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられた。

天明3年(1783年・2歳)、同年より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる。

天明7年(1787年・6歳)、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ。

寛政元年(1789年・8歳)、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ。

寛政2年(1790年・9歳)、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く。

寛政3年(1791年・10歳)、日田に来た久留米松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける。

寛政4年(1792年・11歳)、水庖ソウにかかり6・70日病む。

寛政6年(1794年・13歳)、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義。

同年6月:元服


寛政7年(1795年・14歳)、佐伯へ遊学。

寛政9年(1797年・16歳)、福岡亀井昭陽入門が認められる。

寛政11年(1799年・18歳)、病にかかり、亀井塾を去る。

寛政12年(1800年・19歳)、療養生活となる(以後数年)。

享和元年(1801年・20歳)、門人数人に句読を教える。

享和2年(1802年・21歳)、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義。

文化元年(1804年・23歳)、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる。

文化2年(1805年・24歳)豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始。自身も長福寺学寮に転居するが、その3ヵ月後に実家の土蔵に塾を移す。

同年8月、豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾。「成章舎」と名付ける。


文化3年(1806年・25歳)、成章舎で講義開始。

文化4年(1807年・26歳)、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける。淡窓自身は塾内には住まず、実家から通勤した。

文化7年(1810年・29歳)、塾生が30名を超える。合原ナナと結婚。

文化10年(1813年・32歳)、日記を書き始める。『史記』を輪講。

文化14年(1817年・36歳)、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付ける。咸宜園で塾生と一緒に生活するようになる。

文政元年(1818年・37歳)、頼山陽が日田に来遊。数度面会した。

文政2年(1819年・38歳)、咸宜園の塾生37名になる。

文政3年(1820年・39歳)、月旦評によれば塾生は103名になる。

文政7年(1824年・43歳)、風邪のため休講が100日を越す。『自新録』を脱稿。

文政8年(1825年・44歳)、正月に体調を崩す。『敬天説』脱稿。田能村竹田が淡窓を訪ねる。

文政11年(1828年・47歳)、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿[6]

文政13年(1830年・49歳)、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる。

天保8年(1837年・56歳)、日柳燕石を訪問し、燕石は八百余家を救ったと書き残している。

天保13年(1842年・61歳)、幕府から永世名字帯刀を許さる。

嘉永元年(1848年・67歳)、「万善簿」一万善を達成。

嘉永6年(1853年・72歳)、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す。

安政2年(1855年・74歳)、塾を広瀬青邨に委ねる。

安政3年(1856年(安政3年・75歳)、『淡窓小品』完成。

同年10月、墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛けた。

同年11月1日、死去。遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬。


大正4年(1915年)、正五位を贈られる[7]

著作
作品

「桂林荘雑詠」(けいりんそうざつえい)
『遠思楼詩鈔』に掲載されている
七言絶句である。淡窓26歳のときの作で、以下の4首からなる。2首目を「休道の詩」、3首目を「諸生に示す詩」とも通称する。これら4首のうちの特に2首目は詩吟として読まれることもある [8]

(1)
幾人負笈自西東  幾人か笈を負ひて(いくにんかきゅうをおいて) 西東自りす(さいとうよりす)。
両筑双肥前後豊  両筑(りょうちく) 双肥(そうひ) 前後の豊(ぜんごのほう)。
花影満簾春昼永  花影(かえい) 簾に満ちて春昼永く(すだれにみちてしゅんちゅうながく)。
書声断続響房?  書声(しょせい) 断続して房?に響く(だんぞくしてぼうろう[注釈 2]にひびく)。
(2)(休道)
休道他郷多苦辛  道ふを休めよ(いうをやめよ) 他郷苦辛多しと(たきょうくしんおおしと)。
同袍有友自相親  同袍友あり(どうほうともあり) 自ら相親しむ(おのずからあいしたしむ)。
柴扉暁出霜如雪  柴扉暁に出づれば(さいひあかつきにいずれば) 霜雪の如し(しもゆきのごとし)。
君汲川流我拾薪  君は川流を汲め(きみはせんりゅうをくめ) 我は薪を拾はん(われはたきぎをひろわん)。
(3)(諸生に示す)
遙思白髪倚門情  遙かに思ふ(はるかにおもう) 白髪門に倚るの情(はくはつもんによるのじょう)。
宦学三年業未成  宦学三年(かんがくさんねん) 業未だ成らず(ぎょういまだならず)。
一夜秋風揺老樹  一夜(いちや) 秋風(しゅうふう) 老樹を揺がし(ろうじゅをゆるがし)。
孤窓欹枕客心驚  孤窓(こそう) 枕を欹てて(まくらをそばだてて) 客心驚く(かくしんおどろく)。
(4)
長鋏帰来故国春  長鋏帰りなん(ちょうきょうかえりなん) 故国の春(ここくのはる)。
時時務払簡編塵  時時務めて払へ(じじつとめてはらえ) 簡編の塵(かんぺんのちり)。
君看白首無名者  君看よ(きみみよ) 白首にして名無き者を(はくしゅにしてななきものを)。
曾是談経奪席人  曾て是れ(かつてこれ) 経を談じて席を奪ひし人(けいをだんじてうばいしひと)。
書籍

著書は以下を主に約120作ある。

『遠思楼詩鈔』


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef