広沢真臣
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戊辰戦争では、米沢藩宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸と同様に寛典論者であった。明治2年(1869年)、復古功臣として木戸や大久保利通と同じ永世禄1,800石を賜り、民部官副知事[3]や参議の要職を務めた。

明治4年(1871年1月9日東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。
死後

正三位を贈位される。明治12年(1879年)には維新の功を賞され、広沢家は華族に列せられた。華族令制定以前に華族に列した元勲の家系は、木戸家・大久保家と広沢家のみであった。明治17年(1884年)、嫡子金次郎伯爵が授けられた。

墓所は当初長州藩菩提寺であった芝区青松寺に設けられたが、後に世田谷松陰神社吉田松陰の墓所の近くに改葬された。尚、墓所はブロック塀で囲まれており、立ち入ることはできない。

1921年(大正10年)2月24日、贈従二位[4]

『広沢真臣日記』は、木戸や大久保の日記と並んで幕末維新史の一級資料として評価が高い。
暗殺事件

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医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。犯行後、同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多々見られた。横井小楠大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺であり、広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられた。

広沢家の家令に対する苛烈な捜査の結果、両者の密通や広沢家の私金流用の事実も判明した。明治8年(1875年)には陪審員列席による裁判が行われたものの、結局、両者は無罪となり釈放された。

多くの者がこの暗殺事件を迷宮入りと観念する中、木戸孝允だけは捜査を督促し続けた。捜査に関しては、小河一敏雲井龍雄、その残党など、80数名が暗殺の容疑者として取り調べられたものの、下手人の特定にさえ至らず、真相は今日に至るまで不明である。

未解決事件であるため、暗殺の下手人・黒幕に関しては諸説あり、横井や大村の事件のように維新政府を快く思わない不平士族に狙われた説、あるいは旧幕府軍の残党によるものとする説が一般的である。

同じ長州出身の高官である木戸と広沢の折り合いが悪かったとして、当時から木戸やそれを支援する大久保などが暗殺の黒幕であるとする説があった[5]。しかし、当時政府の枢要士族(木戸孝允大久保利通西郷隆盛板垣退助山縣有朋たち)は、廃藩置県の準備として御親兵を東京に集めるため、また自藩の藩政改革を更に推し進めるため、参議広沢真臣らに留守の東京を託して自藩や京、大坂などにしばしば赴くという状態であり、必ずしも広沢と木戸ら政府高官との折り合いが悪かったとはいえず、広沢の殺害を企てたとは考えにくい。

また、この事件の捜査の過程で新政府の外交方針の転換に反発した過激な攘夷派が同じ考えを持つ公家や久留米藩を担ぎ出してクーデターを計画した二卿事件も発覚している。
評価

松平春嶽

「頗る人物なれども、大久保、木戸の比にあらず。しかしながら、地方のことには大いに注意、大功労ある人なり」[6]

「広沢参議は、木戸に次ぎたる英雄にして、すこぶる練熟し徳望ある也。衆人之望を帰し、威ありて不猛、勤王の志十分にして、その深切なるは誰々も感ぜぬものはなし。木戸と相伯仲せり」[6]


西郷隆盛 「廣澤は温厚篤実の君子なり。他人の為、怨みを買うが如きなし。恐らく誤殺ならん」[7]

一族

長男:
金次郎(妻は子爵山尾庸三の娘)

孫:真吾(妻豊子は侯爵大隈重信の養継嗣信常の娘)

孫:直子(池田勇人に嫁ぐが昭和4年(1929年)に死去)


兄:柏村数馬 別名・信。山口藩権大参事[8]。藩主毛利敬親の世子元徳の側近であったことから広沢が世に出るきっかけを作った[9]

甥:柏村庸之允(別名・庸。数馬の子。広沢の尽力により兵部省陸軍兵学寮派遣留学生に選抜され明治3年から5年間フランス・ベルギーで学び、帰国後陸軍学校教官を経て在独日本公使館附少佐として渡独、現地女性と結婚し軍を辞す[10]。明治21年(1888年)設立の「有限会社品川硝子会社」初代社長を務めたのち、晩年はベルリンで妻と宿屋を営む[11][10]

脚注^ “朝日日本歴史人物事典「広沢真臣」”. 2021年9月24日閲覧。
^ 五代友厚 薩長国産貿易商社(2) ⇒http://godaidon.com/2018-11-07/godai-tomoatsu-satsuma-choshu-trading-company-2/
^ 太政官『太政官中民部官ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治2年04月08日。太00017100。https://www.digital.archives.go.jp/item/3179015。 
^ 『官報』第2568号「叙任及辞令」1921年2月25日。
^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 西南の役(一)』講談社学術文庫、1980年、p.61頁。 
^ a b 『逸事史補』
^ 『維新百傑』
^広沢真臣旧宅跡山口市文化政策課
^ 広沢真臣 ひろさわさねおみコトバンク
^ a b 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), pp.192-196
^日本のガラス/明治時代一般社団法人東部硝子工業会

参考文献

『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(神一行 著、角川文庫、2002年、pp.76-90)

関連作品

勝海舟 - 演:横内正NHK大河ドラマ、1974年)

花神 - 演:森川公也 (NHK大河ドラマ、1977年)※役名は「広沢兵助」

奇兵隊 - 演:山田永二 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)※役名は「波多野金吾」

勝海舟- 演:田中隆三 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1990年)※役名は「広沢兵助」

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