広東軍政府軍にあって孫文は、海軍と元帥府の親軍および二十営の広東派をのぞくと、自身の軍権がおよぶ基盤を持っていなかった。そこで彼は、再度クーデターを起こして大元帥としての権限の拡大と集中を図った。そして、みずから海軍に命令して広州督軍府を砲撃させ、広西派の打倒を図ったのである。しかし、1917年末、陸栄廷・唐継尭・莫栄新らは唐紹儀との連合会を招集し、馮国璋の政治的正統性を再確認して、北方軍閥との連立政権を組織すべきことを主張した。
1918年になると、海軍の程璧光が広西派につくようになるなど軍政府・非常国会内における広西派の優位はゆるぎないものとなり、5月には、軍政府が7総裁による集団指導制へと改組された。ここに第一次護法運動が終結し、陸栄廷ら桂軍(旧広西派)の支援を得た岑春?が、8月に主席総裁に就任した。
岑春?や桂軍が主導権を握るようになると、かれらは北京政府(特に直隷派)との協調姿勢をとり、「南北和平」を目指そうとした。しかし、その政治姿勢に反発するかたちで、今度は孫文・唐紹儀・唐継尭(?軍)の各総裁が反発して辞任したり、岑春?・陸栄廷と北京政府とのあいだの密約を暴いて糾弾するなど、事態はむしろ紛糾の度合いを深めた。
1920年(民国9年)3月、総裁の1人である伍廷芳が上海に出奔し、反岑春?勢力と連合した。これは事実上、広東軍政府を分割する行動であった。同年10月、粤軍(広東軍)の陳炯明が桂軍を広東から駆逐し、後ろ盾を失った岑春?は、ついに辞職を表明して上海の租界に逃亡し、広東軍政府はここに消滅した。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 陸栄廷はチワン族(壮族)で桂軍(広西軍、広西派)の創始者である。また、唐継尭は民国初期の10数年にわたり、雲南省を統治した?軍(雲南軍、雲南派)の創始者である。
^ 1912年結成の国民党が袁世凱によって解散状態に追い込まれたのち、孫文らは亡命先の東京で1914年に中華革命党を組織した[4]。
^ ただし、当時の汪兆銘は孫文と行動を共にしながらも「官職に就かない」という自身のモットーを守り、広東軍政府から秘書長への就任要請があってもこれを固辞している[5]。
^ 陳炯明は粤軍(広東軍、広東派)の創始者の一人。広東軍政府(第1次広東政府)では孫文を支えたが、中華民国正式政府(第2次広東政府)では孫文に叛旗をひるがえし、1922年、同政府を瓦解に追い込んだ。
^ 岑春?は、西太后の信任を得て昇官した官僚政治家。チワン族。
出典^ a b 久保(1998)p.375
^ a b c d e f g h i j k 小島・丸山(1986)pp.78-81
^ a b c 狭間(1999)pp.47-53
^ 久保(1998)p.382
^ a b ⇒柴田哲雄「汪兆銘伝のための覚書き」
参考文献
久保亨 著「第7章 中華復興の試み」、尾形勇、岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年6月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-41330-6。
小島晋治、丸山松幸『中国近現代史』岩波書店〈岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8。
狭間直樹「第1部 戦争と革命の中国」『世界の歴史27 自立へ向かうアジア』中央公論新社、1999年3月。ISBN 4-12-403427-X。
関連項目
護法運動
軍閥時代
中華民国正式政府
広東大元帥府
表
話
編
歴
中華民国の政権
中華民国軍政府(1911年?1912年)
中華民国軍政府鄂軍都督府
中華民国臨時政府(1912年?1913年)
中華民国臨時政府
北洋政府(北京政府、1913年?1928年)
中華民国政府(1913年?1915年;1916年?1924年;1926年?1927年)
中華民国臨時政府(1924年?1926年)
中華民国軍政府(安国軍政府、1927年?1928年)
護国軍政府(1915年?1916年)
軍務院
護法政府(1917年?1925年)
中華民国軍政府(広東軍政府、第一次広東政府、1917年?1920年;1920年?1921年)
護法各省連合会議(1918年)
中華民国正式政府(広州中華民国政府、第二次広東政府、1921年?1922年)
建国軍政設置府(1922年)
中華民国陸海軍大元帥府大本営(広東大元帥府、広東革命政府、第三次広東政府、1923年?1925年)
国民政府(1925年?1948年)
広州国民政府(第四次広東政府、1925年?1926年)
中国国民党中央執行委員興国国民政府委員臨時連席会議(1926年?1927年)
武漢国民政府(1927年)
南京国民政府(1927年?1937年;1946年?1948年)
重慶国民政府(1937年?1946年)
中華民国国民政府(傍系)
北平国民政府(1930年)
広州国民政府(第五次広東政府、1931年-1936年)
南京国民政府(汪兆銘政権、1940年?1945年)
中華民国臨時政府(1937年?1940年)
中華民国臨時政府
中華民国維新政府(1937年?1940年)
中華民国維新政府
中華民国政府(1948年?)
中華民国政府(1948年?現在)