党の改組と同様に重要なのは、党の軍隊の創設であった[1]。陳炯明の反乱を教訓に、孫文はソ連の赤軍のように革命精神で鍛えられ、思想的に武装した党軍(国民革命軍)の必要性を痛切に感じており、1924年5月、?介石を黄埔軍官学校準備委員長に命じた[1][3]。なお、?介石をこの学校の校長にと強く推薦したのは汪兆銘の妻の陳璧君であった[3]。
1924年6月、孫文みずから総理となり、廖仲トを党代表に選んで、国民革命軍の中核を養成する機関として黄埔軍官学校が創設された[1]。?介石が校長に任じられ、政治部副主任として共産党の周恩来(主任は汪兆銘)が入った[2]。この学校には、五四運動以降中国の民族運動と連帯を深めていた朝鮮人青年34名も入学している[2]。
黄埔軍官学校は、国民党幹部の養成所として重要な役割を担ってきたため、?介石は一貫して校長職を手放さなかった[1]。そして、党軍(国民革命軍)を押さえた?介石が台頭し、権力闘争を勝ち抜いていくのである[1]。
9月、孫文が「北伐」を開始し、胡漢民は広東の留守をつとめて大元帥の職権を代行し、広東省長を兼ねた。翌月、広東商団の反革命蜂起が起きたが、胡はこれを鎮圧し、危機を脱した。 中国の北方では、袁世凱亡き後の北京政府の実権を握っていた北方軍閥安徽派の巨頭段祺瑞が、日本における原内閣の成立によって後ろ盾を失い、競争者である直隷派と争って敗れ、いったん失脚した[4]。ところが直隷派軍閥の曹?が旧国会議員を買収して大総統となったこと(「賄選」)で国民の顰蹙を買って大混乱となり、張作霖率いる奉天軍が北京に入城したものの民心が服さず段祺瑞の再出馬を要請するという事態が生じていた[4]。 段祺瑞は広東にあった孫文を招請した[4]。1924年11月、孫文は「北上宣言」を発し、北京入りして提携を模索したが、その途中、汪兆銘もともなって日本に立ち寄った[4]。段らとの会議に先立って日本からの政治的・財政的援助を得るためであったが、日本政府は「赤化」した孫文一行の東京入りを許さなかった[1]。孫文は神戸の高等女学校で「大亜細亜主義」の講演を行った[1][2][注釈 1]。しかし、この講演は孫文最後のものとなった[2]。北京に着くや彼は肝臓癌で入院してしまったのである[2]。 1925年3月の孫文の死去に際して、「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節で有名な遺言(孫文遺嘱)を記したのが、孫文の片腕とされた汪兆銘であった[3][5]。汪はこれを、病床にあった孫文から同意を得たと伝えられており、?介石の義兄にあたる宋子文、孫文の子息孫科、呉稚暉、廖仲ト夫人の何香凝らが証明者として名を連ね、遺書には汪兆銘が「筆記者」として筆頭に記されている[3]。孫文死後、大元帥代理の職務は、右派の胡漢民に委ねられた。 1925年7月1日、広州では広東大元帥府の機構が再編され、国民党(一期)三中全会で国共合作の中華民国国民政府(広州国民政府)が正式に成立した[6]。党内左派の汪兆銘は政府主席を務め、財政部長には孫文の片腕となって国民党改組を推進した党内左派の廖仲トが就任した[6]。
孫文の「北上宣言」と客死
広州国民政府へ
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 孫文は、この講演で、日本は功利と強権をほしいままにする「西洋覇道の番犬」となるか、それとも公理に立った「東洋王道の牙城」となるかを聴衆に問いかけ、中国のみならず全アジア被抑圧民族の解放に助力することがアジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路ではないかと訴えた。
出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 狭間(1999)pp.79-89
^ a b c d e f g h i j k l m 小島・丸山(1986)pp.103-107