妻は元女優の加茂良子[7]。実妹は元声優兼歌手の広川あけみ。作曲家の藤森崇多は甥[12]。
コメディ作品などにおける言葉遊びを駆使したアドリブや独特な口調は「広川節」などと呼ばれ親しまれた[11]。 松竹[13]、中田プロ[13]、東名企画を経て[14]、フリーランスで活動[15]。個人事務所のオフィス広川を経営していた[16]。 父親が大都映画所属のカメラマンだったこともあり、生後すぐから小学3年生頃まで映画に出演していた[17]。 中野区立第九中学校(現:中野区立中野中学校)[2]、東京都立文京高等学校卒業[注 2][18]。小さい頃から学校教師、ジャーナリスト、演劇人に憧れ中学時代から、将来はどれかになろうと決めていたといい、高校時代に演劇部へ所属したことを機に、演劇人になることを決意する[2][3][19]。 日本大学芸術学部演劇学科卒業[1][2][19][20]。在学中は、自ら結成した落語研究会で講師となった柳家つばめから大きな影響を受ける[21]。大学卒業後、舞台俳優を目指し俳優の道へ進んだ[2][19]。 1961年、大学の先輩であり東北新社にて吹き替えディレクターをしていた小林守夫から声をかけられたことで[19][20]、海外ドラマ『シャノン 1969年、アニメ『ムーミン』にスノーク役で出演。自身の味を出そうと考えこんだ時期でもあり、他のキャラクターとのギャップを広げようと語尾を変えたり工夫した結果、独特なアドリブスタイルが完成された。それが評判となり、吹き替えなどの他作品でもその口調を求められることが増加。広川は後に「自分にとってもターニングポイントになったのがスノークでした」と述べている[23]。 全盛期にはCMナレーションを月に30?40本務めており[11]、加えて『おはようテレビ朝日』や『競馬中継』などのテレビ番組の司会、ラジオ番組のパーソナリティといったタレント活動も行っていた。 晩年になってからもナレーションを中心に精力的に活動していたが、その後体調を崩すようになる。 2008年3月3日、癌のため東京都渋谷区の病院にて死去[24]。
略歴
生い立ち
キャリア
晩年・死去
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