広島電鉄
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それに併せて1930年(昭和5年)にはH形(後の1030形)を導入した[36]。1937年(昭和12年)の火災では、C形・D形1両ずつ、計2両が被災[79][補足 9]。足回りなどを流用し[79]、1941年(昭和16年)に半鋼製の1040形として復旧した[156]

1939年(昭和14年)にアルファベットだった形式名を、車番と同様の数字による形式名に変更した[142][157]
広島電鉄時代
会社成立から原爆投下1942年に導入された、広島電鉄生え抜きの650形


(左・被爆前、右・被爆後)被爆前後の八丁堀周辺。横断する道路が本線が通る相生通り。左から2番目の道に当時白島線が通っていた。戦後その一つ右側の道が白島通りとして整備される。

画像外部リンク
アメリカ国立公文書記録管理局が所有する1945年被爆後の本社写真。
Hiroshima aerial A3400 9月5日撮影。北西から南東方向を撮影したもの。
Hiroshima aerial A3374 右上から左下に伸びる路線が宇品線で、左下に本社が見える。

当時の国の政策[補足 10]により、1942年(昭和17年)1月30日に 臨時株主総会で、運輸部門の分離を可決[158][43]。同年2月2日に、内務省および鉄道省に軌道譲渡許可申請を[158][43]、鉄道省に地方鉄道譲渡許可申請・旅客自動車運輸事業譲渡許可申請を各省庁に申請した[158][43]。同年4月4日に、各運輸事業に関する、譲渡許可が下り[44]、1942年(昭和17年)4月10日、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して広島電鉄となった[159]。この年、600形(初代)650形が導入された[160]1943年(昭和18年)12月に現在の江波線の一部となる土橋 - 舟入本町間が開通[160]1944年(昭和19年)6月に舟入本町 - 舟入南町間が単線で開通[161]。翌7月に宮島線の廿日市 - 電車宮島間が単線化[161]。その線路を使い、12月に皆実線が開通[161]1945年(昭和20年)3月に舟入本町 - 舟入南町間が複線化された[161]。この頃には、現在の路線網がほぼでき上がった。

その頃集電装置も技術的な進歩があり、市内線に関して1940年(昭和15年)4月より白島線で、100形4両にビューゲルを、200形1両にパンタグラフを装着し、試験開始[42][補足 11]。1944年(昭和19年)8月までに全車両に取り付け、火花が飛びやすく敵の標的になりやすいトロリーポールを置き換え[163]、日本国内初のビューゲルの本格的実用化に成功した[163][164][46][補足 12]。宮島線についても、1943年(昭和18年)3月に、集電装置をトロリーポールからパンタグラフに交換した[164]。また、ビューゲルの金具の実用新案権(実用新案登録第355463号)も取得した[166]

1945年(昭和20年)6月には、電車の疎開のため桜土手引込線が整備され[164]、戦災を防ぐために宮島などを含め分散留置された[167]

そして、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾広島市に投下された。人類が経験したことのない未曾有の被害であった[168]。原爆投下で本社は半壊[169]。広島市内にあった広電の建物は1棟を除き50棟すべて損壊した[170]。当時は1,241人在籍していたが、185人が死亡、266人が負傷した[169][補足 13]


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