2000年(平成12年)5月5市町村の間で連携交流協議会を設置するも、両県市町村間での調整が難航した。結局、愛媛県側4町村で上島町を設立、合併案は事実上凍結された。
なお、現在まで上島町は橋やフェリーなどで愛媛県に接続されておらず、車両で四国に上陸するためには一旦広島県側を経由しなければならない状態になっている[注釈 4]。
土砂災害危険箇所「広島土砂災害」も参照
国土交通省の平成10年および平成14年の報告では、広島県にはがけ崩れや土石流による土砂災害危険箇所が31,987箇所あり、これは都道府県の中で最多である。2位以下は、島根県(22,296)、山口県(22,248)、兵庫県(20,748)、大分県(19,640)、和歌山県(18,487)、高知県(18,112)、愛知県(17,783)となっている。危険箇所の少ない地域は、沖縄県(1,032)、山形県(3,771)、東京都(3,786)、青森県(4,005)などで全国に525,307箇所ある[22]。上位3県が広島、島根、山口と中国地方西部となっておりこれは山がちな地形であるため住宅地が山の裾野まで迫り、さらには山腹まで宅地開発されていることと、花崗岩が風化したまさ土による地質の脆弱さによるものである[23]。 県名は県庁所在地である広島市に由来する。その広島の由来は、1589年(天正17年)からの毛利輝元による広島城築城の際に、1591年(天正19年)命名されたものである[24][25][12][26]。大江広元(毛利氏の祖)以来、毛利氏は「元」の通字以外、「広」も諱に使用する字の一つとしていた。毛利元就の時代には、完全に臣従したもの(吉川元春、天野元貞、出羽元祐など)には、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆(平賀広相、阿曽沼広秀など)には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与えたとされる。この慣習は毛利輝元にも引き継がれ(吉川広家、山内広通、益田広兼など)、毛利氏(特に輝元)の与える「広」は重要な意味合いを持った。従って「広島」は、この「広」とこの地の豪族であり、普請奉行であった福島元長の「島」を併せたとする説が有力である[26]。また他に、デルタのため「広い島」からきたという説もある。 旧石器時代から人々が居住していたと考えられ[25]、広島大学(東広島市)には約2万7千年前に遡る西ガガラ遺跡がある[注釈 5]。倉橋島(呉市倉橋町)の鹿島沖からナウマンゾウの化石などが引き上げられている。 甲立古墳や石槌山古墳群などの古墳もあり[24][25]、飛鳥時代後期には備後国に寺町廃寺(三次市)などの寺院が建立された[25]。
歴史
県名の由来
原始・古代
6世紀ごろは古墳時代後期に当たるが、大和政権は、地域の有力者を国造に任命し、国造制を開始した。並行して部民制も導入した。さらに、各地域へ屯倉の設置を拡大し、地域民衆の直接支配も介入し始めた。
741年 - 聖武天皇が諸国に国分寺、国分尼寺造営の詔を出し、備後国分寺を福山市神辺町に、安芸国分寺を東広島市西条町に創建[24][25]。
1151年 - 平清盛が安芸国安芸守に任じられ、瀬戸内海の制海権を手にする[25]。
1164年 - 平清盛など平家一門が法華経28巻など33巻1具(平家納経)を厳島神社に奉納。
1174年 - 後白河上皇が平清盛らを伴い厳島神社に参拝。
1189年 - 甲斐国守護の武田信光が安芸国守護を任じられる[24]。
1274年 - 武田信時が銀山城を築城[24]。
1358年 - 武田氏信が安芸国守護として甲斐武田氏から分家(安芸武田氏のはじまり)[12][27]。
中世謀神と称される戦国時代最高の「知将」であり、中国地方の覇者毛利元就
1541年 - 毛利元就が銀山城を攻略(安芸武田氏の滅亡)[24][25]。以降、毛利氏の勢力は一気に拡大し、安芸国を中心に最盛期には、中国地方一帯と九州の一部を領地とし、西日本最大の勢力を誇った[12][27][28]。のち、関ヶ原の戦いでの敗北で周防・長門(山口県)へ転封されるが[27]、元就の孫・毛利輝元が長州藩の実質上の藩祖となる[28]。
1555年 - 毛利元就が陶晴賢を厳島で破る[25]。
1573年 - 室町幕府15代将軍・足利義昭が、織田信長により京を追放され、毛利氏などの支援により、1576年に鞆に拠点を移し、再起を図る(鞆幕府)[29]。
1587年 - 豊臣秀吉が厳島神社に参拝。
1589年 - 毛利輝元が広島城の築城開始[24][25][12][26]。
近世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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