古代・中世には現在の広島市街地がある太田川デルタ(三角州)は形成されておらず、安芸国の中心としては国府が現在の安芸郡府中町または東広島市西条にあったと推定され[2]、太田川中下流域の祇園[注釈 1]・戸坂[注釈 2]から可部[注釈 3]にかけて荘園、郷が広がっていた。16世紀末、戦国武将の毛利輝元が太田川デルタを干拓して築城を開始したのをきっかけに地域の中枢機能が太田川デルタへ移り、都市としての広島の発展が始まった。江戸時代には、広島藩42万石の城下町として藩主浅野氏のもとで発展した。明治時代に入ると、陸海軍の拠点が集中する軍事都市(軍都)となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて明治天皇が行在し、第7回帝国議会は広島市で開かれるなど、臨時の首都機能を担った[注釈 4]。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地などが配置された。
第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」によって広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、きのこ雲が立ち上り、市街地は一瞬にして破壊された。投下当日中に数万人、1945年末までに推計13万人の人命が奪われ、生存者も火傷痕(ケロイド)、放射線後遺症、精神的後遺症(PTSDなど)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ないものであった。
1945年8月6日の原爆投下後は一時的に死亡者が急増して人口が大幅に減少した。広島市の人口の20パーセント近くが減少したが、戦後は重工業やマツダ(安芸郡府中町)などの自動車産業を中心に見事復興し、現在では瀬戸内工業地域の主要な工業都市となっている。後述するように、1970年代に安佐郡や高田郡の周辺町村を立て続けに編入し、1980年4月1日には全国で10番目となる政令指定都市に指定された。1985年3月に人口が100万人を突破し、現在では全国の市で10番目の人口を抱える(→日本の市の人口順位)。広島都市圏の中核として、中国・四国地方最多の人口を誇り、地域内では唯一の100万都市である。また、一部を除いて国の行政機関の地方支分部局が設置されている(中国四国農政局や中国四国地方環境事務所などは岡山市に所在)ため、中国・四国地方における地方中枢都市の一角を担う存在でもある。一方で都市圏人口としては岡山都市圏が中四国地方で最大であり、中国四国ではプレイメイトシティは存在しない。
地方中枢都市の中では唯一、(狭義の)地下鉄が通っておらず、市内交通は路面電車の広島電鉄とバスが担っている。特に路面電車は規模・乗車人数において国内最大であり、日本一の路面電車の街となっている[3]。
広島市の地理的・経済的特徴を示す語として「3Bの街」という語が挙げられる[4]。これは、市内にバス路線(Bus)が多い、東京・大阪などに本社を持つ企業の支店(Branch)が多い(支店経済都市)、市街地がデルタ地帯にあるため橋(bridge)が多い[注釈 5]ことに由来する。
東で東広島市と北で北広島町と、広島が付く市町と隣接している。広島県ではなく北海道に北広島市が存在しており、その理由は、明治時代に広島県人が北海道札幌県札幌郡に入植し、それにちなんで自治体名を札幌郡広島村(その後広島町、北広島市に名称変更)としたためである。 広島という地名は、戦国時代末期、この地を支配した戦国大名の毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に広島城の築城を行ったことに関連して登場する[5][注釈 6]。
地名・名称
市名の由来