広島市への原子爆弾投下
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1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令に発せられると同時に、グローブスによれば大統領の正式の承認を得るため、ポツダムに送られたという[7]。レスリー・グローブスが起草した原爆投下指令書.mw-parser-output .bquote cite{font-style:normal}
第20航空軍第509混成群団は、1945年8月3日ごろから以降、天候が許し次第、目標:広島、小倉新潟長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を目視攻撃により投下することとする。この爆弾の爆発効果を観測し記録する目的で、陸軍省から派遣した軍と民間の科学者要員を運ぶためには、余分な機を爆弾搭載機に随行させることとする。これらの観測機は、爆弾の爆発点から数マイルの距離にとどまることとする。

計画要員によって準備が整い次第、上記の目標の上に追加の爆弾を投下することとする。上に列挙した以外の目標に関しては、追って指示を与える。

この兵器の対日使用に関する一切の情報を発表する権限は、陸軍長官および合衆国大統領だけが保有することとする。前線の司令官によるこの主題に関する声明や情報の発表は、事前の特別な許可なしには、行ってはならない。一切の報道記事は、陸軍省に送って特別な検閲を受けることとする。

上記の命令は、合衆国陸軍長官と参謀総長の承認の下に、その指示によって貴官に発せられる。貴官はこの命令書の写し1通をマッカーサー将軍に、また1通をニミッツ提督に、情報として送達されたい。


グローブスによれば、スチムソンがポツダムに行く前に7月31日まで投下準備は整わないだろうと報告したという。また、トルーマンがポツダム宣言の回答のために日本に十分な時間を与えたことを確信したいと述べたことを、グローブスはスチムソンから聞いたとする[7]。そのため、早めに準備が整ってもすぐに投下はしないということでグローブスとスチムソンの意見は一致したという。グローブスによれば、「ごろ」には当日を含む以前・以後の4日間を指すという(訳書によれば、詳細不明ながら「旅行規定」とされている。)。グローブスの著書の訳者は、そのため投下指令書の投下日は「8月3日ごろから」としたのではないかと指摘している(7月31日以降に投下可能となる)。

しかし、8月1日に入っても日本上空の天候は思わしくなかったという[7]
グアム島

8月2日グアム島第20航空軍司令部からテニアン島第509混成群団に、次のような野戦命令13号が発令された[8][9]野戦命令13号.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

1. b. (2) (a) ここに挙げた以外の味方機は、攻撃時刻の4時間前から6時間後までの間は、この攻撃のために選ばれたどの目標に対しても、50マイル以内に入ってはならない。
2. 第20航空軍は、8月6日に、日本の目標を攻撃する。
3. c. 第313航空団、第509群団:
    (1) 第1目標: 広島市街地工業地域。
      (a) 照準点: 063096。 参照:XXI爆撃機集団リト・モザイク 広島地域、No.90.30-市街地。
      (b) 攻撃始点: 北緯34°24′-東経133°05′30″。 〔広島県三原〕
      (c) 離脱点(目標を攻撃した場合): 少なくとも150度の右旋回をして、北緯34°00′-東経133°34′。 〔愛媛県川之江?伊予三島
(2) 第2目標: 小倉造兵廠および小倉市。
(3) 第3目標: 長崎市街地域。
(4) 必要兵力:
(a) 攻撃兵力: 3機。
 (b) 予備機: 1機、失敗の場合に備えて硫黄島に進出させておく。
(c) 気象観測機: 3機、それぞれの目標に1機を派遣する。
(6) 航路:
基地
硫黄島
北緯33°37′-東経134°30′(発進開始点) 〔徳島県牟岐沖合の大島
       北緯34°15′30″-東経133°33′30″ 〔香川県三崎半島の突端〕
       攻撃始点
       目標
       離脱点
       硫黄島
       基地。
(10) 搭載爆弾量と特殊装備: 第509群団指揮官により指定された通りとする。
(11) 目視攻撃だけを行うこと。
4. この作戦に対しては、作戦任務番号は付けない。記録の目的には、特殊爆撃任務13番とする。
テニアン島

8月4日B-29エノラ・ゲイ[注 1]は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場[注 2]に帰還した。翌8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した[注 3]

5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された[10]。作戦命令35号

作戦日: 1945年8月6日
状況説明: 以下を参照せよ
離陸: 気象観測機は0200(頃) / 攻撃機は0300(頃)  〔時刻はすべてマリアナ標準時〕
起床時刻: 気象班は2230 / 攻撃班は2330
食事時刻: 2315から0115
必要携帯食: 気象班は2330に39食 / 攻撃班は0030に52食
トラック: 気象班は0015に3台 / 攻撃班は0115に4台

機体番号   ヴィクターナンバー   機長      補助乗員     同乗者
気象任務


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