この項目では、徳川家斉の正室について説明しています。福島県福島市の寺院の院号廣大院については「誓願寺 (福島市)」をご覧ください。
広大院肖像
広大院(こうだいいん、安永2年6月18日〈1773年8月6日〉- 天保15年11月10日〈1844年12月19日〉) は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)[1]。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方〈慈光院〉)。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。養父は近衛経熙[1]。実名は寧姫・篤姫・茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいる。 安永2年(1773年)6月18日に鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫・於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、安永5年(1776年)、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し[1][注釈 1]、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。 10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである[注釈 2]。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。 茂姫は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年)11月15日に島津家と縁続きであった近衛家および近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえ ただこ)」として結婚することとなった。寛政元年(1789年)2月4日、婚姻、御台所となる[1]。 重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。 この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪の側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追い出し、自らは重豪の正室同様にふるまった。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は、後の近思録崩れの原因の一つとなった。 寛政8年(1796年)には家斉の五男・敦之助を産む[1]。御台所が男子を出生するのは2代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来であった。ただし、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家が再興されてその当主となった。この慶事により茂姫および島津重豪の威勢はますます盛んになった。が、敦之助は3年後の寛政11年(1799年)に夭逝した。また、寛政10年(1798年)にも懐妊するが流産している。 とはいえ、御台所となって以来、側室が生んだ数多い家斉の子供は、全て「御台所御養」として茂姫の子とされ、正室としての権勢はゆるぎのないものだった[3]。 異母弟で9代藩主の島津斉宣が隠居後、財政難を理由に幾度も幕府に要請した薩摩帰国が却下されたのは、広大院の意図によるものとされるが、その理由は享和元年の母・お登勢の方(市田氏)死後に斉宣が市田一族を薩摩藩政から排除したことに対して広大院が激怒したことにあるといわれ、御台所の権威を背景に、薩摩藩政にも大きな影響力を及ぼした。 天保8年(1837年)、夫・家斉が隠退して大御所となって西の丸に移ると茂姫も西の丸に移り、「大御台様」と称せられるようになる。
生涯
婚約・御台所へ
権勢と薩摩藩政への影響
晩年