昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある[9]。
日本は島国であるためか、船幽霊など海の幽霊の話も多い。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水(水してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする[8]。紀伊国(現・和歌山県)に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる[8]。
室町時代以降、幽霊は歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった[8]。
江戸時代後期の国学者・津村淙庵が寛政7年(1795年)に語ったところでは、7月13日[* 2]にかならず、難破船の船乗りの幽霊が、相模国(現・神奈川県)にある灯明台に参集したという[8]。
出遭った時点では幽霊と気づかず、実はすでに亡くなった人物であったと後になって気づくという話も、古今の別なく様々に語られている。古代においては『日本書紀』雄略天皇9年条(西暦465年の条)の記述を、近世においては『耳嚢』巻之五(寛政7年〈1795年〉)に記載されている亡くなった小侍の話がある。 幽霊は、江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には怪談噺などが大流行した。「雨月物語」「牡丹燈籠」「四谷怪談」などといった名作が創られ、また、講談や落語、草双紙、水墨画、浮世絵などで盛んに描かれた。現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。 文政8年6月11日[* 3](1825年7月26日)に江戸の芝居小屋「中村座」で『東海道四谷怪談』が初公演されたことに因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。 鳥山石燕『画図百鬼夜行』「幽霊」/安永5年(1776年)の作。描かれているのは、夜の墓場の枝垂柳の間から現れ出た女の幽霊で、額烏帽子 日本では幽霊は古くは生前の姿で現れ[9]、歌謡などの中でもそのように表現されていた[9]。江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子
伝承される文化・芸術として
幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻
元禄年間(1688-1704年間)に刊行された『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた[9]。しかし、享保17年(1732年)刊行の『太平百物語』では、幽霊の腰から下が細く描かれている。