幹部候補生_(日本軍)
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1937年の幹部候補生採用数は兵科、各部の合計が6160名(そのうち甲種採用は4440名)であったのに対し、新制度の幹部候補生採用数は1938年が9511名(甲種5601名)、1939年が1万7666名(甲種1万995名)となった[24]

甲種幹部候補生は従来の各部隊内での教育から集合教育にかわり、新たに設立された陸軍予備士官学校をはじめとする各種の軍学校など(後述)でおよそ11か月の教育を受けると定められた。ただし航空兵科は特に高度な技能教育が必要となる者が大半のため、甲乙種区分前に所定の航空関係諸学校に入校し独自課程による教育を受けた。また兵科の技術従事幹部候補生は採用後ただちに陸軍造兵廠でおよそ1年間の教育を受けるとされた。各部の幹部候補生はそれぞれの職務に応じて所定の期間を学校あるいは官衙、部隊で集合教育を受けた。

改正によるもうひとつの主な変更点は、幹部候補生の修業期間である。それまで幹部候補生制度は一年志願兵制度の頃と大差なく修業期間が1年程度であり、一般兵よりも短かった。それを現役の新兵から採用された者は入営日から満2年まで、その他の兵から採用された者は採用から1年8か月と延長した。

1938年4月時点で改正陸軍補充令により定められた幹部候補生の過程と、与えられる階級は次のとおりである。
幹部候補生
兵として在営4か月以上。採用時に一等兵、採用後に部隊教育2か月[* 34]で上等兵、採用後3か月で甲乙種に区分。


甲種幹部候補生

原則として学校で教育。区分後1か月で伍長、さらに3か月後(採用から通算7か月後)に軍曹、教育修了後に曹長へ進み見習士官。


乙種幹部候補生

原則として部隊で教育。区分後4か月で伍長。区分後1年で試験、優秀者は軍曹。

教育課程を修了した各兵科および各部の甲種幹部候補生は曹長の階級に進み、部隊等で見習士官として初級将校の勤務を習得する。およそ4か月後に所属先の将校団による銓衡会議で可決されると、少尉に任官し予備役に編入された。乙種幹部候補生は採用後およそ1年3か月の後に試験を行い、その成績と平素の勤務成績により優秀者は軍曹となり予備役に編入された。
幹部候補生制度の終了まで

前述の学校教育・二年修業制となった陸軍補充令改正以後、1939年(昭和14年)からは幹部候補生の制度に大きな変更は行われなかったが、1940年(昭和15年)3月より衛生部に歯科医官が定められた。また同年9月にはそれまでの「各兵科の技術従事者」が技術部に改まり、1942年(昭和17年)4月に法務部が新設され、それぞれ幹部候補生を採用した。当該部の幹部候補生の資格は次のとおりである[25][26][27]
衛生部・技術部・法務部
兵科幹部候補生と同様の条件を満たし、かつ次の条件を備えること。

衛生部 (1940年3月以降)― 軍医:医師免許を有するか受ける資格のある者。薬剤官:薬剤師免許を有するか受ける資格のある者。歯科医官:歯科医師免許を有するか受ける資格のある者。

技術部(1940年9月以降) ― 工学または理学の学士、あるいは工業に関する学科の専門学校を卒業した者。実業学校令による工業学校を卒業した者も前者に準じる。

法務部(1942年4月以降) ― 司法官試補[* 35]となる資格のある者。

法務部の幹部候補生は1942年4月に定められた法務部幹部候補生教育規則(陸普第2469号)で甲乙種の種別がなく、採用された幹部候補生はすべて法務部将校となる教育を受けた[28]。また衛生部において乙種幹部候補生が存在せず甲種のみであったとする、一個人の体験をもとにした著作も確認されるが[29]、制度上は衛生部幹部候補生教育規則(昭和9年陸達第7号、昭和13年陸普第2453号、昭和17年陸普第2907号)により予備役衛生部下士官となる乙種幹部候補生が規定されている[30][31][32]。1945年(昭和20年)における幹部候補生の場合「昭和二十年度幹部候補生ノ採用、取扱等ニ関スル追加ノ件達」(陸密第682号)では、同年の第一次、第二次採用者のうち兵科はおよそ50パーセントが甲種、経理部はおよそ60パーセントが甲種、衛生部は軍医が「予備役将校タルニ適スト認ムル者」の条件つきで全員が甲種、薬剤官と歯科医官はおよそ90パーセントを甲種に区分すると定められた[33]

日中戦争の長期化、および1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦以降、戦局は深刻なものとなり、不足する将校と下士官を補充するため幹部候補生は大量に採用された。昭和18年度(1943年4月より1944年3月)における甲種幹部候補生の採用数は第一次(10月10日甲種決定)が9109名、第二次(11月20日甲種決定)が3562名である[34]。それに加え同年度は10月に施行された在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)[35]により12月1日に入営または応召した(いわゆる「学徒出陣」)高等教育機関出身者からもさらに幹部候補生を採用した[36]。また将校および下士官の需要を早急に満たすため幹部候補生の修業期間は適宜短縮されている[37][38][39]。修業中の階級に関しても1944年(昭和19年)4月の陸軍補充令改正(勅令第244号)で幹部候補生採用時に上等兵の階級が与えられ、採用後およそ2か月で兵長に進むと改められた[40]

1945年(昭和20年)8月、日本政府はポツダム宣言を受諾し、8月15日に太平洋戦争の終戦に関する玉音放送がされた。8月18日、大陸命第1385号により全陸軍は「与エタル作戦任務ヲ解ク」とされ[41][42]、幹部候補生制度は終了した[* 36]。甲種幹部候補生は第13期が入校あるいは幹部候補生隊に入隊して間もなくのことであった。制度の根拠となっていた陸軍補充令は1946年(昭和21年)6月14日施行の「陸軍武官官等表等を廃止する勅令」(勅令第319号)により廃止された[43]
甲種幹部候補生の教育施設

学校教育・二年修業制への変更で甲種幹部候補生は軍学校に派遣しての教育が原則となったが、派遣先は兵科、部により様々であった。また兵科、部が同じであっても時局や幹部候補生が所属する部隊の所在地によって異なる場合があった。以下は1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)までに幹部候補生の教育が行われたと確認できる派遣先である[44][45][46][47][48]
各兵科
歩兵科の派遣先は陸軍予備士官学校がもっとも一般的であるが、候補生の総数に対して学校の規模が十分でなく、改正陸軍補充令附則第5条[22]にもとづいて陸軍歩兵学校陸軍教導学校などの施設を利用して教育する場合があった[49]。ほかに兵科・兵種によっては陸軍騎兵学校、陸軍戦車学校(のちに千葉陸軍戦車学校と改称)、陸軍公主嶺学校四平陸軍戦車学校陸軍野戦砲兵学校陸軍重砲兵学校、陸軍防空学校(のちに千葉陸軍高射学校と改称)、陸軍工兵学校陸軍通信学校、陸軍自動車学校(のちに陸軍機甲整備学校と改称)、陸軍輜重兵学校陸軍習志野学校などの校内に幹部候補生隊を編成して教育をした。航空兵科は甲種幹部候補生だけに限らず乙種幹部候補生も学校教育を基本として陸軍航空技術学校仙台陸軍飛行学校その他の航空関連諸学校で専門教育を行った。陸軍の諸学校以外にも陸軍船舶練習部、陸軍鉄道練習部、陸軍陸地測量部などへ派遣されて教育を受ける者もあった。また遠隔地の部隊に所属した幹部候補生には南方軍では南方軍幹部候補生隊、支那派遣軍では保定幹部候補生隊[50]緬甸(ビルマ)方面軍では緬甸幹部候補生隊[51]関東軍では奉天甲種幹部候補生隊などを組織して集団教育にあたった[* 37]。極端な例では関東軍が「予備士官学校」を満州国牡丹江省石頭に独自に設置して甲種幹部候補生を教育したという記述が一部に確認できるが、これは通称であり正式には「関東軍歩兵第二下士官候補者隊」(満州第604部隊)が編成を増強して甲種幹部候補生を入隊させ教育したものである[52]


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