幸福
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(『パンセ』425)[2]

絶えず幸福になろうとしている状態にあるかぎり、われわれはけっして幸福になることがない。(『パンセ』172)[2]

現代フランスの代表的モラリストの一人であるコント=スポンヴィルは次のように説いた。「あるがままのものを認識し、できることを意志し、起こることを愛すること」[2]
アダム・スミスアダム・スミス(1723?1790)

[5]アダム・スミスは『道徳感情論』において「幸福は、平静と享楽にある。平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでもそれを楽しむことが出来る」[6]とした。「健康負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何を付け加えることが出来ようか」[7]。しかし「(健康で、負債がなく、良心にやましいところがない状態)につけ加えうるものは、ほとんどないにしても、それから取り去りうるものは多い。この状態と人間の繁栄の最高潮との間の距離は取るに足りないのに対し、それと悲惨のどん底との間の距離は無限であり巨大である[7]」「貧乏な人は、彼の貧困を恥じる。彼は、それが自分を人類の視野の外に置くこと、あるいは、他の人びとがいくらか彼に注意したとしても、自分が耐え忍んでいる悲惨と困苦について、彼らが、いくらかでも同胞感情をもつことはめったにないということを知っている。彼は(貧困と無視)双方の理由で無念に思う。無視されていることと、否認されることは、まったく別のものごとなのではあるが、それでもなお、無名であることが名誉と明確な是認という日の光を遮るように、自分が少しも注意を払われていないと感じることは、必然的に人間本性の最も快適な希望をくじき、最も熱心な意欲を喪失させる[8]」。

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を--それを見る喜びの他にはなにも引き出さないにもかかわらず--自分にとって必要なものだと感じるのである。」「われわれが、他の人々の悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も挙げる必要はないであろう」[9]。この共感と同情による幸福の追求は彼の富国論のなかの重要な命題「成員の圧倒的大部分が貧困で惨めであるような社会は、繁栄した幸福な社会ではありえない」[10]に結実していることが発見できる。
イギリスの功利主義

近代に入り、キリスト教のものではない世俗的な価値観が現れると、イギリスにおいては、感性的な快のもたらす満足感が幸福なのだとする発想が芽生え[2]、これが後に功利主義につながってゆくことになった[2]ベンサム(1748?1832)

ベンサムは、個人にとっての幸福は快が得られ苦痛が欠如した状態にある、と見なす快楽説を採用し、個々人の私的善の総和を最大幸福と見なし、「最大多数の最大幸福」の実現を社会的行為の基盤と見なした[2]

ただし、この考え方には修正が必要だとしたのがジョン・スチュアート・ミルである。ミルは、何が快であり苦であるかには個人差があると考え、快楽計算に質的観点を導入してみせた[2]。ミルは「太った豚よりも痩せたソクラテスであれ」という言葉でも知られている[2]
マズロー

欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズロー (1908年 - 1970年)の説明では、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために「絶対的幸福というものは存在しない」などともされた。
ヴィクトール・フランクルの思想

ヴィクトール・フランクルは人間が実現できる価値を3つに分類している。

創造価値:善や美を作り出す。

体験価値:善や美を享受する。

態度価値:人間らしい尊厳ある態度をとる。

創造価値、体験価値の実現は一般的に言われる幸福な状態である。最後の態度価値は、困難で悲惨な環境・状況のなかでも実現できる価値であり、環境だけが人間にとっての価値ではなく、たとえどのような環境に遭遇しても、それに対する自分自身の態度のとり方にこそ価値があると捉えることで幸福を得られることを、ヴィクトール・フランクルは著書で語った。彼は、アウシュヴィッツという究極の状況下で人々が見せる様々な態度を目撃し、また、そのような状況下でも充実した生き方を見せた人に遭遇した実体験などもふまえてそれを語った。
新宮秀夫による説明

新宮秀夫は幸福とは満足、安心、豊かさなど人の願うことの中そのものにあるのではなく、それを得ようとしたり持続させようとする緊張感の中に幸福があるとする。そして幸福についての考え方を、複雑性に応じて四つの段階に分類する。数字が上の階は下より高級ということではなく、下の階の考え方を前提とすることにより成り立っているということである。

第一のステージ:富、名声、恋、スポーツ、食事などを通じて快楽を得ることに幸福を感じる。

第二のステージ:獲得した快楽を永続させようとするいとなみの中に幸福がある。

第三のステージ:苦しみや悲しみを克服するいとなみの中に幸福がある。

第四のステージ:克服できない苦しみの中に、幸福がある。

その他の幸福論の主な著作

エピクテトス『語録』:己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。

バールーフ・デ・スピノザエチカ』:物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。

アルトゥル・ショーペンハウアー『幸福について』:目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。『意志と表象としての世界』第四部では、自他の区別を去った意志の否定を説く。

エミール=オーギュスト・シャルティエ(アラン)『幸福論』:健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。
人間は意欲すること、そして想像することによってのみ幸福である[11]

バートランド・ラッセル『幸福論』:己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。妬みは「わが身を不幸にする」ので、他人と自分を比較するのを止めなければならない。
ほんとうに心を満足させる幸福は、わたくしたちのさまざまな能力を精いっぱい行使することから、またわたくしたちの生きている世界を十分に把握することから生まれるものである[11]

カール・ヒルティ『幸福論』:神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。
幸福の第一の必要欠くべからざる条件は、倫理的世界秩序に対する正しい信仰である[11]。人生の幸福は、困難が少ない、あるいはまったくないということにあるのではなく、それらをすべてりっぱに克服することにあるのである[11]

福田恆存『私の幸福論』:不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。

モーリス・メーテルリンク青い鳥』:2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。
なんだ、あれがきっと僕たちのさがしていた青い鳥なんだ。僕たちはずいぶん遠方までさがしに行ったけれど、ほんとうはここにしょっちゅういたんだな[11]
近年の様々な見解

幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない、という。

この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、やはり「楽しい」「幸福である」という状態はその主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても、みずからの「心のありかた」を意識的に選び取ることによって見出すことができるとされている。
統計的、精神医学的調査・研究

[12]1980年代から幸福感に関する心理学的・精神医学的な研究が盛んになってきた[13]

世界各地の110万人のデータを検討したマイヤースらの1996年の研究によると、2割の人が「とても幸福である」と答え、約7割の人が「かなり幸福」あるいは「それ以上」と答えていた。

1990年のイングルハートによる分析では、ある程度以上裕福な先進諸国においては、個人の経済的裕福さと幸福感との間には関連性が見られなくなる[13]顕著性ネットワークは、創造的なアイデアとそうでないアイデアの選別に活躍し[14]、幸福感を含むあらゆる感情の一部でもあると言われている[15]


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