[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この季節の一巡は、天文学的には春分から次の春分までを指し、これは太陽年[11](回帰年[10])と呼ばれる。この見た目の太陽運行は、太陽を公転する地球の自転軸(地軸)が公転面に対して約23.44度傾いているために生じる。これは赤道傾斜角と言われる。地球が、太陽が春分点にある位置から太陽周回軌道(公転軌道)をほぼ1周すると、太陽に対するこの傾いた地軸が同じ位置になり[12]、ふたたび春分点に太陽が来る。これが季節の一巡となる。

しかし、地球の自転軸や公転時間は一定していない。傾いた地球自転軸は、コマが触れるようにその方向を変え、そのため春分点が1年あたり約50ずつ東へ移動している。これは歳差運動と呼ばれる[13][14]。そのため、実は春分点への回帰を根拠とする太陽年では地球の公転上の位置が一定しておらず、1年で地球の公転方向と逆に角度約50秒(公転時間約マイナス20)ずつずれてゆく[15]。これは地球上では、年々ずれる春分点と、遠い距離の恒星がつくる星座の位置が変わってゆく現象として観察される[13]。地球が正確に公転軌道を360度回転した「年」は、この恒星(慣性系)を基準にその位置が回帰した時間として定められ、これは恒星年と呼ばれる[16]
摂動の影響

基本的な天文学における1年を決める地球の公転はケプラーの法則に従う楕円軌道で定義され、歳差運動も一定ならば太陽年や恒星年に変化は生じないと思われる。しかし、ケプラーの法則は2つの天体についての運動をニュートン力学で解いたものであり、ここに第3の天体が加わると計算が非常に複雑となり、事実上近似値しか求められなくなる。このような他天体の影響による軌道の乱れは摂動と呼ばれる。サイモン・ニューカムはこれら摂動の影響を短い周期(短周期項)とゆっくりした周期(詳しくは長周期項と長年項)に分け、それらが断続的にケプラー運動の初期値に影響を与えると述べた[17]。そして、この摂動によって地球の公転軌道は徐々に離心率が小さくなり恒星年が短くなると説明された[18]。さらに摂動は自転軸の章動を起こし、公転速度に乱れを生じさせ恒星年に影響を与える[15]

また、公転軌道そのものも一定ではない。楕円の公転軌道も他惑星からの摂動によって回転しており、地球の近日点は1年で地球の公転方向側に角度約11秒ずつ(公転時間約4分)ずれてゆく。近日点通過後次に近日点の位置に地球がくるまでの時間を「近点年」(平均約365.25964日 [19])というが、この年は恒星年よりも約4分長い[15]
自転の変化

一方、「年」を地球の自転によって決まる「日」で定義する場合、この自転そのものが段々と減速している事も知られている。摂動や潮汐などの影響と考えられているが、古代の日食記録やサンゴ組織の「日」単位の粗密(日輪)の調査などから約5億年前の1日は短かったことが判明しており、当時の1年は約400日だったと考えられる[20]
人為的に定義された年

初期の人類が時間を認識する基礎は、季節の観念だったと考えられる。これは狩猟採集社会において獲物や収穫を左右する要因に大きく影響を及ぼしたからである。ただしその当時どこまで厳密な「年」の概念を持っていたかは定かでない[21]イギリスにある新石器時代の遺跡ストーンヘンジは一種の天体観測台であり、夏至冬至の時期を知るカレンダーの機能を持っていたと考えられる[22][23]
太陰暦と太陰太陽暦詳細は「太陰暦」および「太陰太陽暦」を参照

日次を認識する際、天体の相(満ち欠け)を起こす様子は便利だった。そこから新月から次の新月までの周期である1朔望月(約29.53日)を基礎に置いた暦である太陰暦が発達した[24]。この暦では、平均朔望月(約29.53059日[25])から1か月を29または30日とし、その12倍(太陰年=約354.36708日[25])を暦年と定めたが、季節の循環と毎年10日ほどのずれが生じることになった。この暦は遊牧民族漁撈中心の社会に適し、地域では古代メソポタミアエジプトギリシア中国で発達した[26]。現代でもイスラムで使われるヒジュラ暦は太陰暦であり、1年は354または355日となる[26]

しかし太陰暦は季節の期とのずれが激しく、気候変化に根付いた時間感覚との違和感が大きく農耕民族にとっては[26]使いにくい。古代ギリシアの数学者メトンは、19太陽年と235朔望月にほぼ合うことを見つけ、太陰暦の19年に7度追加の月(閏月)を挿入するメトン周期を発案した[26]。これによると、1年は平均して365.263日となる。この周期はバビロニア[注釈 2]や中国でも独自に発見され、太陽年と太陰暦を置閏法で調整し特定の年を13か月とする太陰太陽暦が発達した[27]
太陽暦詳細は「太陽暦」を参照

地球の公転を基礎に置く太陽暦を発達させた古代文明にエジプトがある。この地で発達した根底には一定の期間で発生するナイル川の洪水があった。これを基準に季節を3つの期に分け、アケト(洪水)、ペロイェト(芽生え)、ショム(欠乏)と呼んでいた[28]。この期がそれぞれ4朔望月とほぼ一致することから、当初はエジプトでも太陰暦が用いられていた[28]。ところが彼らは、洪水が起こり始める夏の時期には太陽が昇る直前の東の空にシリウスが輝くという天文現象に気づいた。エジプト人はシリウスをソプデトと崇め、夏至を基準とする暦法を作り出した。当初、これは朔望月を基準に3年に1度閏月を加える1年を354日とする「太陰星暦」とも呼べる暦法だったが、紀元前2700年ごろに1か月を30日とし別に5日の祭日を設けた1年を365日とするシリウス暦に改められた[28]。この30日の12倍に余りの5日を1年とする暦法は古代エチオピア[29]古代インドのパーシ教徒[30]でも用いられた。古代エジプトでは、やがてシリウス(恒星)と太陽の運行には若干の差がある事が認識され、プトレマイオス3世治世時に4年に1度閏日を加え、1年を平均365.25日とする暦法が制定された[31]ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)

共和政ローマの実権を握ったガイウス・ユリウス・カエサルは、紀元前46年に1年を平均365.25日とするエジプトの太陽暦を導入した[注釈 3]。彼の死後、一時混乱して閏年を3年に1度とする平均365.3333日の運用もなされたが、紀元8年にアウグストゥスが修正を施し平均365.25日へ戻された[31]ローマ帝国の拡大に伴い、ユリウス暦はヨーロッパのほぼ全土・アフリカ北部から中近東に至る広い地域で用いられた[31]。このユリウス暦でも1年当たり約11分14秒長かったため、やがて春分日との誤差が顕著になった。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によって400年間に97回の閏年を設けるグレゴリオ暦へ改暦され、1年は365.2425日となった。この年単位は当初はカトリック諸国のみの採用に留まっていた。しかし暦として優れている点が徐々に認められ、プロテスタント諸国には18世紀以降、ギリシア正教諸国も19世紀には、非キリスト教国では1873年の日本 [注釈 4]を皮切りに、20世紀中には世界中のほとんどの国が採用する西暦(世界標準暦)として用いられるようになった[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:88 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef