平野謙_(評論家)
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戦時中は「身は売っても芸は売らぬ」をひそかな志としていたが、1941年1月から1943年6月まで情報局に月給100円の常勤嘱託として勤務し[8]、演説の原稿などの起草をした。1943年5月、中央公論社に移り、嘱託として勤務[9]。また文学報国会評論随筆部会の幹事を務め、文化学院に講師として勤めた[9]

戦後、本多秋五埴谷雄高荒正人佐々木基一小田切秀雄山室静と雑誌『近代文学』を創刊し、新しい文学をめざした。この時期は、蔵原惟人小林秀雄とを模範とするというところに彼らの特徴が現れていた。平野は、その中で積極的に文学状況に対して発言し、「小林多喜二火野葦平とを表裏一体としてとらえる」ことを課題とした。この宣言から、中野重治宮本顕治らといわゆる〈政治と文学〉論争がおき、戦前のプロレタリア文学の再検討の機運をつくった。

1950年から1955年まで相模女子大学教授。1957年明治大学文学部専任講師、62年教授となり、死去まで務めた。主著は『島崎藤村』(『近代文学』1946年1月-2月。1947年8月刊)と『藝術と実生活』だが、前者は藤村の私生活を暴き立てたとして亀井勝一郎の批判を受けた。後者については、中村光夫が、私小説田山花袋の「蒲団」に始まるとしたのに対し、1913年(大正2年)の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」を私小説の濫觴とする説を出しており、一時期学界の定説化していた。

純文学論争は、1960年、松本清張水上勉らの中間小説が評論家の賞賛を受けていた時期に、平野が「純文学というのは歴史的概念だ」と書いたことに端を発したものだが、実はそれ以前から、大岡昇平による松本清張批判などの前哨戦があった。優れた娯楽小説は純文学に勝るという考え方は、現在もしばしば論争の種になるくらいで、決着がついていない。

1957年田宮虎彦と亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で刊行されベストセラーになると、『群像1957年10月号に「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」を発表し、同書を「特殊な、不自然な、変態的な書物」と批判。平野はさらに田宮の小説にも筆鋒を向け、『絵本』『菊坂』を「二流の小説作品」、『足摺岬』を「三流の文学作品」とこき下ろした。平野はまた「妻の死について書かずにいられぬ田宮虎彦の気持ちのなかには妻からの解放感がかくされていたはずである」と邪推し、「田宮は『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と小田切秀雄に吹聴した[10]。これに対し、田宮は『新潮1980年10月号に小文「トルストイとスターリン」を書いて抗議した。平野がここまで激しく反発したのは、平野自身の妻に対する態度が田宮とは対蹠的に冷淡だったからではないかと青山光二は推測している[11]。青山によれば、平野は妻が来客に話しかけようとすると「しっ、しっ」と犬猫のように追い払っていたという[11]

1961年糖尿病治療のため入院した際に、見舞いに来た三一書房の竹村一が共産党リンチ事件の公判調書を持っていることを知り、それを譲り受け、長年の宿願だった同事件についての本(『「リンチ共産党事件」の思い出 資料袴田里見訊問・公判調書』)を1976年に刊行する[12]。同年、埴谷雄高の紹介で癌研に入院し食道がんの手術を受ける[12]

1977年日本芸術院賞を受賞[13]。1978年4月3日、くも膜下出血のため東京都世田谷区日産厚生会玉川病院で死去。戒名は評言院釈秀亮[14]。墓所は各務原市法蔵寺。
家族

父・平野履道(柏蔭) ‐ 僧侶、文芸評論家。平野家は
岐阜県那可村(現・各務原市)の浄土真宗大谷派「法蔵寺」の住職を務める家系。五男一女を儲ける。[15]

弟・平野蕃(1909-) ‐ 履道の二男。満鉄職員、東北大学教授。1934年東京帝国大学農学部農業経済学科卒業後満鉄入社、1943年満鉄調査部事件で検挙され、1944年釈放後退社、満州農業公社に転じ、1946年帰国、国民経済研究協会農林省調査局を経て1951年に東北大農学部教授、1978年退官後岩手県立盛岡短期大学学長。[15][16]

弟・平野馨 ‐ 履道の四男。大谷大学を出て法蔵寺住職を継ぐも1943年にガダルカナル島で戦死。[15]

妻・田鶴子 ‐ 評論家・泉充(1908-1947)の妹。1934年結婚。平野と充はプロレタリア科学研究所芸術部の同期。[17][18]

戦時中の行動をめぐって

戦後になって、戦時中左翼的な文学者の「ブラックリスト」を中河与一が警察に提出したという噂が流れたことが引き金となり、中河は文壇からパージされたと言われる。しかしこれは平野によるデマであり、自分の戦争協力行為を隠蔽するための工作だった、とする見方を森下節が昭和50年代に発表した[19]

ほかにも杉野要吉(『ある批評家の肖像 平野謙の〈戦中・戦後〉』勉誠出版)や江藤淳(『昭和の文人』)が、平野の隠蔽工作を指摘してきたが、平野の弟子に当たる中山和子らは沈黙を守っている。

また、内閣情報部時代の上司の井上司朗からは、大東亜戦争を手放しで賛美した文章(『婦人朝日』1942年8月号、『現代文学』1942年3月号など)を意図的に自分の全集(新潮社)から外したとして非難されている[20]
根本松枝について

平野は24歳のとき、恋人の根本松枝と暮らす家に、平野と同じ日本通信労働組合で委員長の立場にあった小畑達夫を半月ほど住まわせ、恋人を奪われた[21]。松枝は市谷刑務所長・根本仙三郎(判事・根本菊城の三男)の娘で、諫早高女から女子英学塾に進み、学内赤化に努めたことで卒業前に警視庁に検挙されたこともあった(これにより父の仙次郎は引責辞任し、大審院検事資格を得て、のちに弁護士に転じた)[22]

平野は松枝に結婚の意志を示したが、松枝は「あなたとでは進歩しない。もっとしっかりした人に指導されて運動のなかに進んでいきたい」と言って平野の申し出を断り、小畑のハウスキーパー (日本共産党)となった[21]

松枝と別れるとき、平野は赤玉ポートワインを買ってきて別れの盃をし、キスを頼んでキスして別れた[21]。失意の平野は普段行かない銀座に一人出かけ、路上にいた乞食の子供を見かけると思わず抱き上げ、しっかと抱き締めたという[21]。また、平野のペンネーム「松田康雄」は、松枝の一字と、平野が八高の校友誌に書いた小品「稚恋」に出てくる憧れの少女・康子の一字を取ってつけたものと言われる[21]

晩年癌の手術の前日、平野は遺書ともなるうる言葉の中に「私は小畑達夫に対してある個人的な怨念をいだいてきた」と書き記した[21]


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