平野神社
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創建田村第跡 推定地
奈良県奈良市)主神の今木神は、元は平城京の田村後宮に所在した。田村後宮とは田村第を指すと推定される。桓武天皇
延暦寺蔵)

祭神のうち主神の今木神は、元々は高野新笠桓武天皇生母)の祖神として大和国において祀られた神と見られ、延暦元年(782年[原 2]時点では平城京の田村後宮[注 1]で祀られていたことが知られる。桓武天皇による平安京遷都に伴って、この今木神が大内裏近くに移し祀られたのが平野神社の創建になるとされる[8][7][8](その他の各神の経緯については考証節を参照)。

平野神社の創建について、『一代要記』では延暦13年(794年)、『諸神記』では延暦4年(785年)、『江家次第』では延暦年中、『本朝月令』では延暦年中、『伊呂波字類抄』では延暦年中と記載する[4][9][5]。公式の文献としては、貞観14年(872年)の太政官符[原 3]では延暦年中の創建の記載が、次いで延暦20年(801年)の官符[原 4]では平野祭の記載があり、やはり延暦頃の鎮座が確認される[4][7]。いずれにしても、一般的には、平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられている[7][10][11]
概史

国史では、田村後宮の今木神が延暦元年(782年[原 2]に従四位上の神階を奉叙された記事が初見で、平安京遷都以後各神への神階奉叙の記事が散見される[5]。神階は830年代から急速に上昇し[12]、最終的な神階として貞観5年(863年)に久度・古開神は正三位、比売神は従四位上に昇り、貞観6年(864年)に今木神は正一位の極位に達した[5]。以上の記事のうちでは、平野社を「平野神宮」とする表現[原 5]も見られる[2]。また『新抄格勅符抄大同元年(806年)牒[原 6]には「平野 十戸山城国」として、同年における神封の存在が記されている[13]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている[5]。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には二十二社の1つとして上七社の5番目に列している[9]。この時期には、平野神社の例祭である平野祭では皇太子からの奉幣を受けるという特別な位置づけに置かれたほか、臨時祭に際しても勅祭に預かっていた[5]

平野神社は古くは平氏源氏高階氏清原氏中原氏大江氏菅原氏秋篠氏といった臣籍降下氏族・土師氏系氏族から氏神として崇敬され[5]、平氏とは特に強い結びつきにあったという[6]。その後天元4年(981年[原 7]には円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われた[5]。なおこの円融天皇行幸の記事によると、平野社の神宮寺としては「施無畏寺」があったという[5]

中世以降は荒廃したが[13]近世に入り寛永年間(1624年 - 1644年)には西洞院時慶によって再興が図られ、現在の本殿が造営された[5]。近世の社領は100石であった[5]

明治維新後、1871年明治4年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した[7]太平洋戦争後の1948年昭和23年)に神社本庁別表神社に加列されている。
神階

平野神社各神の神階[14]年今木神久度神古開神合殿比盗_
782年従四位上
836年従四位上
→正四位上従五位下
→従五位上従五位下
→従五位上
848年従三位従五位上
→正五位下従五位上
→正五位下無位
→従五位下
851年正三位
→従二位正五位上
→従四位下正五位上
→従四位下正五位下
859年正二位従四位下
→従四位上従四位下
→従四位上正五位下
→正五位上
正二位
→従一位従四位上
→従三位従四位上
→従三位正五位下ママ
→従四位下
863年従三位
→正三位従三位
→正三位従四位下
→従四位上
864年従一位
→正一位
各神の神階昇叙の詳細

今木神

延暦元年(782年)11月19日、従四位上 (『続日本紀』)[原 2] - 田村後宮の今木神に対する叙位。

承和3年(836年)11月5日、従四位上から正四位上 (『続日本後紀』)[原 8]

嘉祥元年(848年)7月25日、従三位 (『続日本後紀』)[原 9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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