平重盛
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長寛2年(1164年)2月、父から造営の賞を譲られた重盛は、正三位に叙された。9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、厳島神社に装飾経33巻(平家納経)を寄進するが、重盛も一門・家人とともに製作に携わった。その中応保2年3月17日には唯一の同母弟・基盛が24歳で卒去している。

長寛3年(1165年)4月、二条天皇は病に倒れた。重態となった二条天皇は5月に重盛を参議に任じ、6月に皇子・順仁親王(六条天皇)に譲位院庁を開設して執事別当に重盛を指名するなど最期まで執念を見せるが、7月に崩御した。六条天皇を平氏と摂関家が支える体制が成立し、重盛は永万2年(1166年)4月に左兵衛督、7月には権中納言右衛門督となった。しかし天皇が幼少のため、政局は著しく不安定だった。7月に近衛基実が薨去すると、六条天皇の政権は瓦解する。
清盛の後継者(後白河院政期)

平氏が二条親政派から離脱して後白河上皇を支持したことにより、仁安元年(1166年)10月に憲仁親王の立太子が実現した。憲仁親王の乳母には重盛の室・経子と藤原邦綱の女・綱子が選ばれ、重盛は乳父(めのと)になった。12月には清盛の後任として春宮大夫となる。仁安2年(1167年)2月には、権大納言となり帯剣を許された。清盛は5月17日に太政大臣を辞任するが、それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された[2]。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。さらに重盛は丹後越前を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。

後継者となった重盛だが健康を害したらしく、「日来所労」「昨今不快」により12月の東宮御書始を欠席し、大乗会の上卿も交替する。仁安3年(1168年)2月、清盛が病のため出家。政情不安を危惧した後白河院は憲仁親王を即位させ(高倉天皇)、体制の安定を図った。重盛は体調不良が続いたらしく、12月に権大納言を辞任する。出家後の清盛は福原に退隠し、六波羅には重盛が残って一門の統率にあたった。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、重盛室の経子勅使役となって重盛の六波羅邸から出立し、後白河院と滋子が七条殿の桟敷で行列を見送っている。

清盛の隠退は、伊勢平氏の軍制にも影響を与えた。これまで清盛に従っていた平貞能伊藤忠清ら伊勢平氏譜代の郎党が重盛に仕えるようになり、彼らを通じてあるいは重盛が直接地方の武士と結びつくことになる。特にこれまで源氏の勢力が強かった東国武士との関係を重要視し、次男資盛の母方の実家である藤原親盛をはじめ、足利俊綱宇都宮朝綱工藤祐経武田有義などを傘下に収めていった[3]
嘉応の強訴詳細は「嘉応の強訴」を参照

嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺の大衆が、重盛の義兄で尾張国の知行国主・藤原成親の流罪を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。大衆は内裏を取り囲んで気勢を上げ、検非違使別当・平時忠は官兵の派遣など早急な対策をとることを進言する。この時、重盛は官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。公卿の議定では慎重論が大勢を占め、重盛も後白河院の三度に渡る出動命令を拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪を認めた。

しかし、すぐに巻き返しに転じて成親を検非違使別当に任命、時忠は解任され身代わりに配流とされてしまう。後白河院と延暦寺の対立は悪化の一途をたどり、事態を憂慮した清盛は正月14日、重盛を福原に呼び寄せて状況を報告させた。このように重盛は一門の代表とはいえ、重要案件については清盛の判断が優先していて、自らの意思・行動はかなり制約されていた。結局、成親の解官で延暦寺は引き下がり事態は沈静化する。同年4月、重盛は権大納言に復帰し、成親も検非違使別当に返り咲いた。

嘉応2年(1170年)、七男の宗実左大臣大炊御門経宗猶子にしている。朝廷の公事の知識乏しい平家公卿は、この経宗に儀式作法の教えを受けていた。また重盛室の経子も経宗の猶子になっている。
殿下乗合事件詳細は「殿下乗合事件」を参照

嘉応2年(1170年)7月3日、法勝寺八講の初日、摂政松殿基房の従者が参詣途中で出会った平資盛の車の無礼をとがめて恥辱を与えた。その後、重盛の子の車と知った基房は震え上がり、ただちに下手人を重盛のもとに引き渡して謝罪するが、重盛は申し出を拒絶した。基房は報復を恐れて、しばらく外出を止める。ほとぼりが冷めたと思われた10月21日、高倉天皇の元服定のため基房が参内する途中、重盛の武者が基房の従者を襲い乱暴を働いたと言われている。

この事件のため、天皇の元服定は延引となってしまう。重盛は天皇の乳父の立場にあり、その行為は許されるものではなかった。重盛を高く評価する慈円も、さすがにこの事件に関しては「不可思議ノ事ヲ一ツシタリシナリ」[4]と困惑している[注釈 2]

この事件の影響からか、12月に重盛は再び権大納言を辞任する。翌年正月3日の天皇元服の儀式に、重盛は欠席した。この儀式の進行に携わったのは、建春門院の兄弟・平親宗と中納言に昇進していた異母弟・平宗盛だった。宗盛の台頭は、重盛の後継者としての地位を脅かすものとなる。
右大将、内大臣就任月岡芳年『大日本名将鑑』の重盛。一族の繁栄を願って、鑑真も参ったという中国の阿育王寺に大金を奉納すべく、九州の僧・妙典に金を持たせて派遣したという『平家物語巻第三』「金渡」の場面を描いたもの

承安元年(1171年)12月、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内したのを機に、重盛は権大納言に復帰する。復帰後の重盛は、朝廷の公事を精力的に勤めた。承安3年(1173年)4月、法住寺殿の萱御所の火災ではいち早く駆けつけて消火活動にあたり、後白河院から称えられた[5]。同年冬の南都大衆の強訴に対しては、院宣により家人・平貞能を宇治に派遣して防備に当たらせた。承安4年(1174年)7月、重盛は空席となっていた右近衛大将に任じられる。この任官に対して清盛の喜びは大きく、21日の拝賀の儀式には藤原邦綱以下、公卿10人、殿上人27人が付き従った。

安元2年(1176年)正月、後白河法皇の50歳の賀には重盛も一門の筆頭として出席し、平氏と法皇の蜜月ぶりを示した。5月に重盛は改めて海賊追討宣旨を受ける。しかし、7月に建春門院が崩御したことで平氏と後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。それでも翌年正月には重盛が左近衛大将、宗盛が右近衛大将となり、両大将を平氏が独占する。3月には藤原師長が太政大臣となったことで空席となった内大臣に任じられる。後白河法皇も福原を訪れるなど、表面的には何事もなく時は過ぎていった。
安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀詳細は「鹿ケ谷の陰謀」を参照

しかし、4月になると延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。発端は延暦寺の末寺・白山と現地の目代の紛争で、中央に波及して院と延暦寺の全面衝突となった。この時、官兵を率いた重盛は閑院内裏を警護して大衆と対峙していたが、家人の放った矢が神輿に当たるという不祥事を引き起こした。高倉天皇は法住寺殿に避難し、後白河院は大衆を実力で排除しようとするが、京都が戦場になる可能性があると反対の声が上がり、実際に出動する平氏一門も、延暦寺との衝突には極めて消極的な態度をとったために断念、大衆の要求を受諾して師高の配流・神輿を射た重盛の家人の投獄を行った。

その後、「太郎焼亡」と呼ばれる大火が発生し、太極殿と関白以下13人の公卿の邸宅が焼失する。その中には重盛の邸宅も含まれていた。5月、後白河院は延暦寺に報復を決意すると、天台座主明雲を解任、所領を没収して伊豆国への配流を命じた。しかし明雲の身柄は大衆に奪還されたため、後白河院は重盛・宗盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じた。重盛らは「父・清盛の指示がなければ動かせません」と返答したため、話にならないと見た後白河院は、清盛を福原から呼び出した。清盛も出兵には消極的だったが後白河院は強硬姿勢を崩さず、やむを得ず出兵を承諾した。

6月1日、多田行綱が平氏打倒の陰謀を密告したことで状況は激変した。この事件では重盛の義兄・藤原成親も関与していて、重盛は捕らえられた成親に「命だけは助かるようにする」と励ましたという[4]。清盛の怒りは凄まじく、成親は備前国へ配流され関係者も一網打尽に検挙された。重盛は左大将を辞任して抗議の姿勢を見せ、配流された成親に密かに衣類を送るなど必死の努力をするが、7月に成親は殺害された。

重盛は長男維盛と三男で経子の長男の清経の妻に藤原成親の娘をそれぞれ迎えるなど、親密な関係を持っていた。上皇の妃であった平滋子の死去から平家と疎遠になりがちな後白河院に対する交渉窓口として、重盛は成親を重視し、後白河院に平氏の要望を取り次ぐ役割を期待してのことであった。その成親が平氏打倒の首謀者であったことで、重盛の面目は丸潰れとなり、公私にわたる政治的地位を失墜させることになった。
晩年・最期安徳天皇と重盛。歌川国芳画

この事件を期に重盛は気力を失い、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。


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