「平等寺」とは異なります。
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある単立の寺院。山号は朝日山[* 1]。本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通、開山は明尊。
宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。
鳳凰堂(国宝)で世界に広く知られている。平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地区」の中核をなす。1994年(平成6年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもある。 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。 道長は万寿4年(1027年)に没するが、その子である関白藤原頼通は永承7年(1052年)になり、末法の世が到来したこともあって、宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、その開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)で、園城寺長吏を務めて京都岡崎(現・京都市左京区岡崎)の平等院の住持となっていた明尊大僧正とした。その際、頼通は新たな寺院の名称として「平等院」の名を欲したので、明尊は岡崎の平等院の名称を譲っている。これによって岡崎の平等院は新たに円満院と改名した。円満院は後に江戸時代に入ってから現在地である滋賀県大津市にある園城寺の東に移転している。 こうして、宇治の平等院は園城寺の末寺として創建された。その際、境内の西にあった縣神社を鎮守社としている。本堂(金堂)は、元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものである。現在観音堂が建っている場所にあり、大日如来像を本尊とした。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されている。延久6年(1074年)、頼通は当院で亡くなっている。
歴史
創建