平沢進
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上記のように体質上、幼少期から菜食中心の生活をしていたが、タイ王国での影響でそれらを「ピタゴリアン」と呼ぶようになる[20]

また、1994年から1998年、2000年、2007年にはファンクラブ旅行『万国点検隊』を開催[151]。主にタイ王国を舞台とし、インタラクティブライブで行われるようなゲームが展開された[152]。1995年、1997年にはインタラクティブライブやアルバムの物語の続編として行われた。2007年の万国点検隊を編集した映像作品『P-0』の売り上げは現地の老人ホーム、聾学校、野犬保護施設にを寄付している[153]

2008年11月、タイ王国の平沢の友人らである23人のSP-2[75] との1994年からの交流から生まれたエピソードを、彼女たちの写真と共に綴ったエッセイ集SP-2: タイのニューハーフ? いいえ「第2の女性」です』を自社出版した[76]

2011年3月11日、タイ王国滞在中に東日本大震災が発生。3月21日に被災された方々へ祈りを捧げる為に現地のWat Raikching寺院(タイ語: ?????????)に頼み、亡くなった方のご冥福と日本人の安全を祈願した寺院の僧侶達の映像をインターネット上で発信し届けた[154]
インターネット黎明期・デジタル技術台頭以降の活動と活用
パーソナルコンピュータとインターネットの活用

1980年代末、P-MODELのライブ演出などで使用するためにパーソナルコンピューターAmiga』を導入した[155][156][157]

当時については「コンピュータについての知識ゼロ」、「まったくのドシロート」、であったと平沢は語っており、更に輸入パソコンのAMIGAにはマニュアルも無く、手探りでプログラミングCGデザイン等を覚え、音声合成機能「Sayプログラム」等を含めた音楽への転用を模索していった[158]

1994年発売の4thアルバム『AURORA』からはゲスト・ミュージシャンを入れず、Amigaを駆使して平沢個人のみによる楽曲製作を開始した[159]

また、同年より活動再開した改訂P-MODELでは、インターネットをキーワードとしており、P-MODELのオフィシャルサイトではライブツアーやレコーディングの模様をMPEGファイルとして配信し、各メンバーが個人ホームページを開設してリスナーとの直接なやり取りが行われた[注釈 18]。平沢も個人ホームページ『Ghost Web』を開設した[160]

1999年にはP-MODELドイツのハンス=ヨアヒム・ローデリウスと小西健司とのプロジェクト『Global Trotters』のアルバムをインターネット上のやり取りのみで制作した[161][103][103]

2012年6月にはニコニコ生放送に出演。約88000人もの来場者数を動員した[162]。ファンのリクエストに答えて同年11月23日にもニコニコ生放送に出演し[163]、こちらも約70000人が来場した[164]

2014年にはケイオスユニオンのYouTubeチャンネルを開設。公式ホームページや他サイト等で行った配信や動画のアーカイブ、ライブの無料同時配信等に利用していたが、インタラクティブ・ライブショウ「WORLD CELL 2015」の公演後より、「平沢進のBack Space Pass」と名したライブの後日配信を行っている[165]

1998年の『インタラクティブ・ライブショウ「WORLD CELL」』から2020年の「会然trek 2k20▼02」までの期間、毎ライブの無料同時配信を行っていたが、「音楽のライブ配信の活用を示す事としてやっていたが、今年から浸透し始めた」として有料の高画質ライブ配信の活用を開始した[166]
MP3音源の活用と楽曲配信

パソコン黎明期から音源のMP3に対して関心を持ち、1999年にソロ10周年・P-MODEL20周年記念として行われたプロジェクト『音楽産業廃棄物 P-MODEL OR DIE』において、P-MODELメンバーがMP3を用いて各自宅のみで楽曲を制作。インターネット上で公開ミックスダウンも行われた。MP3でファンがP-MODEL楽曲をリミックスするイベントも開催された。楽曲配信の弊害となる為、日本コロムビアとの専属契約を解除し、日経BPの協力によりP-MODELの音楽配信サイト『P-PLANT』を開設。 アルバム『音楽産業廃棄物』や『VIRTUAL LIVE』シリーズが配信された[56]。オンライン販売にはビットキャッシュの電子決算システム“BitCash”が利用された。このMP3による楽曲配信は、メジャーレーベルで活躍してきた日本のプロアーティストとして初めてとなった[56][57]

その後、MP3ファイルについては公式ウェブサイト内において未CD化曲の販売を行っており、また、ニューアルバムをリリースする度に収録曲の中から一曲またはアウトテイク数曲を無料配信している。2011年3月にはフリージャーナリスト・市民メディア向けに楽曲を無料配信を行った[167]。同年6月24日にはパレード・パンクの期間労働者・ステルスマンなる人物にオフィシャルサイトを占拠され、楽曲「原子力」(P-MODELの「BOAT」を編曲・歌詞を改変したもの)を無料配信させられる[168]。後に平沢はステルスマンから奪ったカラオケ音源をオフィシャルサイトで無料配信した[169]

MP3をインターネットそのもの含めて「表現者としてリスナーとコミュニケーションを取る新しい枠組み[55]」と評価している。サブスクリプションサービスにおいては「然るべき努力を積み重ねてきた人たちが作った楽曲と、『できちゃったからアップしてみた』みたいな人の楽曲が、同じ土俵に上がっているのは問題といえば問題」としているが、「たとえばリスナーとしての自分は、曲単位で聴いても本当に「いい」と思えばアーティスト名も経歴も調べる。曲の良し悪しを超えて、そのアーティストのことをもっと知りたいと思うし、アルバムで聴きたくなる。つまり、アルバムは必然なんですよ。きっと、ファストフードのように消費される音楽がある一方で、手の込んだ料理を味わい尽くすように楽しむ音楽も存在する。そこはなくならないんじゃないかと思いますけどね。」と語っている[170]
著作権管理団体および大手レーベルからの撤退

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それまで権利関係に疎かった平沢は、自分の楽曲の著作権が出版会社に永久譲渡という形で契約されていることを知る[いつ?][171]。出版会社は、日本音楽著作権協会(JASRAC)から分配された楽曲使用料(印税)のうち50%を控除し、残額をアーティストに分配していたことから、その出版会社が控除した楽曲使用料がどのように運用されるのか、平沢は説明を求めた。しかし、出版会社からは「プロモーションに努める」という回答しか得られず、どのようなプロモーションを行い、どれだけの対費用効果があるのか、平沢が納得できるだけの具体的な回答が無かった。出版会社の変更もレコード会社との関係で困難であったことから、「なぜ私の権利が私の選んだ出版会社と契約できないんですかと、一回ゴネたことある」と述べている[171]

その後、1999年にはP-MODELのアルバム『音楽産業廃棄物?P-MODEL OR DIE』をMP3で配信することを発表し、それに伴う大手レーベルからの撤退を発表する[55]。以降は自社ケイオスユニオンよりテスラカイトレーベルを設立。演奏権を除き、配信レンタル通信カラオケ等の著作権はNexTone(旧イーライセンス)に委託する契約を行っている[172][173]


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