平沢進
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親からもらったラジオ懐中電灯などの壊れた機器をよく修理していた[20]

10歳になりエレキギターに興味を持ち、エレキギターの使用が不良と認識されていた時代であった当時、幼少期は兄の裕一の部屋に置いてあるものを隠れて弾いていた[133]消防士の父親は音楽をする事を反対していたが、エレキギターは男らしいと許可した[134]。その後自身のエレキギターを手に入れ、学校関係の人々からは隠れてギターを練習し、小学5年生の頃にはギター技術を買われて中高生のバンドに誘われ神社や河川敷でセッションをして過ごしていた[135]

小学生時代は学校生活で教師とクラスメイトによって肉体的・精神的苦痛を与えられた。体質上肉類を苦手としており、給食で食べさせられトイレで血と共に吐いていた。現在は、当時を振り返り「幸い、そのような環境が私を育てた」と発言している[136]。12歳には音楽を作る事に興味を持つ[137][138]

高校の時期に兄の裕一から読書を勧められる。その後、宮沢賢治シオドア・スタージョンニコラ・テスラ量子論カール・グスタフ・ユング等の書籍に傾倒していった(詳細は「影響を受けた人物」を参照)[139][20]

1975年には東京デザイナー学院にて卒業制作作品「Hall for Tangerine dream〈胎内から宇宙意識への回帰〉」を発表し、インテリアデザイン科を卒業した[140]
P-MODEL結成時代

デビュー当時はレコードが売れても中々自分達の手元に金銭が渡らず、平沢は餓死しかけたため全財産600円で「食べられる雑草の本」を購入した事もあった[141]

また、この頃の平沢は「怖さ」を強調しており、客からの野次やレコード会社の言い分に対して真っ向から反応し、同調圧力に対しては怒りで対処する等のエピソードがある[81]。当時のリスナーであった編集者の高橋かしこは「音のみぞ」トークイベントで、80年代の平沢の印象を「殺されそうな殺気のある感じだった」と述べている[142]

80年代中期の平沢は度重なる激務により疲弊していたが、カール・グスタフ・ユング分析心理学における概念の一つである、アーキタイプの「観た夢を記録する」という方法により精神と感情の管理を習得[143]。これらユング心理学は以降の作風にも影響を与えている[144]
タイ王国への関心

1994年の5thソロアルバム製作中に、事務所の人間に無理矢理連れて行かれた先のタイ王国で文化的な衝撃を受け[注釈 16]、作風にも大きな変化が表れている。1995年から1998年の期間にアルバム『Sim City』、『SIREN』、『救済の技法』を発表。後に『BANGKOK録音3部作』と名称される(詳細は各項目を参照)。

1995年頃からタイの第二の女性であるサオプラペーッソン(SP-2[注釈 17] に深い関心を示し、繰り返し現地を訪れている[145][146]。以降、彼女たちには、レコーディング時にコーラスとして協力を仰いだり、ライブアクトとして招聘したことがある[147][148][149]

2004年には、平沢と親交が深かった9人の彼女たちが相次いで亡くなったことを受け、彼女たちを追悼するアルバム『SWITCHED-ON LOTUS』が製作された[150]。サオプラペーッソンの存在そのものが、創作意欲に大きな影響を及ぼしていると本人は語っており、彼女たちに対して大きな尊敬を以て接していることがその言動から見て取れる。

上記のように体質上、幼少期から菜食中心の生活をしていたが、タイ王国での影響でそれらを「ピタゴリアン」と呼ぶようになる[20]

また、1994年から1998年、2000年、2007年にはファンクラブ旅行『万国点検隊』を開催[151]。主にタイ王国を舞台とし、インタラクティブライブで行われるようなゲームが展開された[152]。1995年、1997年にはインタラクティブライブやアルバムの物語の続編として行われた。2007年の万国点検隊を編集した映像作品『P-0』の売り上げは現地の老人ホーム、聾学校、野犬保護施設にを寄付している[153]

2008年11月、タイ王国の平沢の友人らである23人のSP-2[75] との1994年からの交流から生まれたエピソードを、彼女たちの写真と共に綴ったエッセイ集SP-2: タイのニューハーフ? いいえ「第2の女性」です』を自社出版した[76]

2011年3月11日、タイ王国滞在中に東日本大震災が発生。3月21日に被災された方々へ祈りを捧げる為に現地のWat Raikching寺院(タイ語: ?????????)に頼み、亡くなった方のご冥福と日本人の安全を祈願した寺院の僧侶達の映像をインターネット上で発信し届けた[154]
インターネット黎明期・デジタル技術台頭以降の活動と活用
パーソナルコンピュータとインターネットの活用

1980年代末、P-MODELのライブ演出などで使用するためにパーソナルコンピューターAmiga』を導入した[155][156][157]

当時については「コンピュータについての知識ゼロ」、「まったくのドシロート」、であったと平沢は語っており、更に輸入パソコンのAMIGAにはマニュアルも無く、手探りでプログラミングCGデザイン等を覚え、音声合成機能「Sayプログラム」等を含めた音楽への転用を模索していった[158]

1994年発売の4thアルバム『AURORA』からはゲスト・ミュージシャンを入れず、Amigaを駆使して平沢個人のみによる楽曲製作を開始した[159]

また、同年より活動再開した改訂P-MODELでは、インターネットをキーワードとしており、P-MODELのオフィシャルサイトではライブツアーやレコーディングの模様をMPEGファイルとして配信し、各メンバーが個人ホームページを開設してリスナーとの直接なやり取りが行われた[注釈 18]。平沢も個人ホームページ『Ghost Web』を開設した[160]

1999年にはP-MODELドイツのハンス=ヨアヒム・ローデリウスと小西健司とのプロジェクト『Global Trotters』のアルバムをインターネット上のやり取りのみで制作した[161][103][103]

2012年6月にはニコニコ生放送に出演。約88000人もの来場者数を動員した[162]。ファンのリクエストに答えて同年11月23日にもニコニコ生放送に出演し[163]、こちらも約70000人が来場した[164]

2014年にはケイオスユニオンのYouTubeチャンネルを開設。


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