平沢進
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80年代、平沢が精神的に不安定だった時期にユング心理学に傾倒するようになる[27]。以後、作品の中に錬金術神話的仏教的用語が使われていること[124] や、平沢作品のテーマである「全き人格の回復[125]」などユング心理学(及び河合隼雄エーリッヒ・ノイマンの著書)の影響が強くなっていく[126]。しかし、神道仏教、その他のアジア宗教哲学の概念を繰り返し音楽のテーマに取り入れながらも自分の思想とはしておらず、「これは音楽のプロセスの為ですから、私の立場を既存的なカテゴリー集団主義的な話と一緒にしないでください」としている[127][128][81]

歌詞作りにおいては宮沢賢治の作品が大きく影響しており、平沢の歌詞の特徴である「専門用語の多様」「言葉が描き出す世界観」など宮沢賢治の作品の構成と類似する点が多く存在する[20]。マンドレイク時代に平沢が歌詞作りに困っていた際、じょうじマョンのボーカリストから「ぜひとも、宮沢賢治を参考にしろ。」と言う助言を受けた事がきっかけである[20]

音楽のリズム・パターンについては、「わたしは世の中で一番好きな音楽が『君が代』なんですけども。ああいう、先に日本語のノリがあった上で成立する音楽は素晴らしい。それはもうリズム・パターンにも影響してきますね。そういう意味で昭和初期の歌謡曲なんかほんとに歌詞の乗せ方からなにからお見事と言うしか言いようがない。」と語っている[129]
ライブパフォーマンス

ライブ活動においても当初はサポートミュージシャンを迎え、バンド編成でのライブを行っており、1990年の『世界タービン・ツアー』最終公演では『オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ナース[注釈 15]』と名付けられた看護婦姿のオーケストラ隊が登場した。その後、1992年に行われたライブ『Hi-Res』ではコンピューターの同期を用いて完全に一人で演奏を行い、これが起点となり、1995年以降は基本的に平沢のみでライブを行うようになる。

レーザーハープ等の自作楽器の利用には「音楽の身体性をデジタル世界で実現する」という共通テーマがあるとしており、「デジタル世界では、身体性が無くても音楽が成立してしまう。とすれば、ライブやショーの意味はどこにあるのか?人間がそこにいる意味は何があるのか?」、「打ち込みで完成する音楽を構成する音楽家にとって、ステージ準備段階で仕事は完了してしまう。それでも「ヒラサワという人間」が見たいのだとすれば、自分がステージ上で動くという前提を作らなければならない。そこで「体が動くテクノロジー」を楽器に組み込むようにしているんです。」と語っている[130]

平沢は元々生演奏におけるミュージシャン固有のニュアンスを排したかったと述べており、以降はP-MODELの再結成やソロ活動初期のようなバンド形式での活動には後ろ向きの態度をとるようになり、2004年に活動を開始した核P-MODELも、基本的には平沢のソロプロジェクトである。一方で、2012年のライブ『PHONON2555』にPEVO1号や元P-MODELメンバーの荒木康弘がサポートメンバーとして参加して以降は、サポートパフォーマーとしてゲストを迎えることも増え、バンド形式での活動も再び増加している。2017年に行われた『第9曼荼羅』より、正体不明のメンバー「会人(EJIN)」がサポートとして参加するようになり、2019年からは「平沢進+会人(EJIN)」というユニットとしても活動を行っている。

なお、この「会人(EJIN)」は公演毎に容姿が変化しており、『第9曼荼羅』では熔鉱炉マスクを装着した「黒会人」[131]、核P-MODELのライブ『回=回』と『フジロックフェスティバル'19』ではペストマスクを装着した「白会人」[91]、『24曼荼羅(不死MANDALA)』・「フジロックフェスティバル'21」ではルベドマスクを装着した「ルベダリアン会人」となっている[95]
人物
幼少期・学生時代

子供の頃から機械が好きで、幼少期は自分のことをエンジニアだと思っていた[20]パイロットに憧れていた時期もある[132]。親からもらったラジオ懐中電灯などの壊れた機器をよく修理していた[20]

10歳になりエレキギターに興味を持ち、エレキギターの使用が不良と認識されていた時代であった当時、幼少期は兄の裕一の部屋に置いてあるものを隠れて弾いていた[133]消防士の父親は音楽をする事を反対していたが、エレキギターは男らしいと許可した[134]。その後自身のエレキギターを手に入れ、学校関係の人々からは隠れてギターを練習し、小学5年生の頃にはギター技術を買われて中高生のバンドに誘われ神社や河川敷でセッションをして過ごしていた[135]

小学生時代は学校生活で教師とクラスメイトによって肉体的・精神的苦痛を与えられた。体質上肉類を苦手としており、給食で食べさせられトイレで血と共に吐いていた。現在は、当時を振り返り「幸い、そのような環境が私を育てた」と発言している[136]。12歳には音楽を作る事に興味を持つ[137][138]

高校の時期に兄の裕一から読書を勧められる。その後、宮沢賢治シオドア・スタージョンニコラ・テスラ量子論カール・グスタフ・ユング等の書籍に傾倒していった(詳細は「影響を受けた人物」を参照)[139][20]

1975年には東京デザイナー学院にて卒業制作作品「Hall for Tangerine dream〈胎内から宇宙意識への回帰〉」を発表し、インテリアデザイン科を卒業した[140]
P-MODEL結成時代

デビュー当時はレコードが売れても中々自分達の手元に金銭が渡らず、平沢は餓死しかけたため全財産600円で「食べられる雑草の本」を購入した事もあった[141]

また、この頃の平沢は「怖さ」を強調しており、客からの野次やレコード会社の言い分に対して真っ向から反応し、同調圧力に対しては怒りで対処する等のエピソードがある[81]。当時のリスナーであった編集者の高橋かしこは「音のみぞ」トークイベントで、80年代の平沢の印象を「殺されそうな殺気のある感じだった」と述べている[142]

80年代中期の平沢は度重なる激務により疲弊していたが、カール・グスタフ・ユング分析心理学における概念の一つである、アーキタイプの「観た夢を記録する」という方法により精神と感情の管理を習得[143]。これらユング心理学は以降の作風にも影響を与えている[144]
タイ王国への関心

1994年の5thソロアルバム製作中に、事務所の人間に無理矢理連れて行かれた先のタイ王国で文化的な衝撃を受け[注釈 16]、作風にも大きな変化が表れている。1995年から1998年の期間にアルバム『Sim City』、『SIREN』、『救済の技法』を発表。後に『BANGKOK録音3部作』と名称される(詳細は各項目を参照)。

1995年頃からタイの第二の女性であるサオプラペーッソン(SP-2[注釈 17] に深い関心を示し、繰り返し現地を訪れている[145][146]。以降、彼女たちには、レコーディング時にコーラスとして協力を仰いだり、ライブアクトとして招聘したことがある[147][148][149]

2004年には、平沢と親交が深かった9人の彼女たちが相次いで亡くなったことを受け、彼女たちを追悼するアルバム『SWITCHED-ON LOTUS』が製作された[150]


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