平沢進
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ストリングスの音についてはメロトロンのような本人いわく暗い音を好んでおり[22]、現在はEast West社のHollywood Stringsを使用している[116]。12th『現象の花の秘密』ではこの音源を大々的にフィーチャーしている。かつてはソロでシャウトを使わないという制約も設けていたが、11th『点呼する惑星』の「Mirror Gate」で解禁した[117]

1994年、4作目となるソロ・アルバム『AURORA』からはゲスト・ミュージシャンを入れず、コンピューターAmigaを駆使し、一人でのソロアルバム製作を開始した[118]。インタビューで個人でのコンピューターインターネットを利用を開始した事について、「過去の経験全てが点と点が繋がる感覚で、想像が止まらない」と答えている[119]

歌唱において、軍人のような低い声にシャウトからオペラのようなファルセットまで様々な声色を使い分ける[120]。平沢の独特なヨーデルのような唱法を質問された際、「江戸時代の消防士である火消しが歌う、木遣りというものなんですけど、そこからアイデアを得たんです。」と答えている[121]

ソロデビュー前にはKORG M1を用いて、習作としてマンドレイク時代の楽曲『飾り窓の出来事』のエディットが行われており、長らく離れていたプログレにも接近している。このことから、中野泰博は平沢の音楽性を「現代のプログレ」と評している[110]。バンドにおける制約を排したなんでもありの音楽性が意識されている。

5thは当初90年代版ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』を意識したコンセプト・アルバムを制作する予定だったが、その途中でタイへと渡航し、そこで出会ったSP-2の影響を受け作風が大幅に変化した。同時期に活動を再開したP-MODELでの活動においても平沢ソロとの融合が図られ、民族音楽とテクノポップを融合したアジアン・テクノを打ち出した。

アジアン・テクノ路線も2000年の『賢者のプロペラ』以降は収束し、以降はアメリカ同時多発テロ事件イラク戦争への疑問から(詳細は「BLUE LIMBO」を参照)、初期P-MODEL以降距離をとっていたディストピア的な世界観を前面に押し出たメッセージ性の強い楽曲を多く発表するようになる。還弦主義8760時間における過去曲の弦楽的アレンジ作品のリリース、Hollywood Stringsを導入したアルバムの制作(『現象の花の秘密』)など弦楽的なアプローチを強める一方、核P-MODEL『回=回』やフジロック・フェスティバル2019での演奏からはサーフサウンドのスタイルも見て取れ、平沢ソロと核P-MODELとの融合が感じられる。
歌詞

先に楽曲を作成し、その音の制限内でテーマ上の歌詞を想像していくという手法を用いている[122]。活動初期に歌詞を捻出するのが難しかった頃は、先に歌詞を書き楽曲を作成していたが、楽曲を先に作り「制限を重ねる」事で寧ろ想像の幅が一気に広がったとしている[123]

80年代、平沢が精神的に不安定だった時期にユング心理学に傾倒するようになる[27]。以後、作品の中に錬金術神話的仏教的用語が使われていること[124] や、平沢作品のテーマである「全き人格の回復[125]」などユング心理学(及び河合隼雄エーリッヒ・ノイマンの著書)の影響が強くなっていく[126]。しかし、神道仏教、その他のアジア宗教哲学の概念を繰り返し音楽のテーマに取り入れながらも自分の思想とはしておらず、「これは音楽のプロセスの為ですから、私の立場を既存的なカテゴリー集団主義的な話と一緒にしないでください」としている[127][128][81]

歌詞作りにおいては宮沢賢治の作品が大きく影響しており、平沢の歌詞の特徴である「専門用語の多様」「言葉が描き出す世界観」など宮沢賢治の作品の構成と類似する点が多く存在する[20]。マンドレイク時代に平沢が歌詞作りに困っていた際、じょうじマョンのボーカリストから「ぜひとも、宮沢賢治を参考にしろ。」と言う助言を受けた事がきっかけである[20]

音楽のリズム・パターンについては、「わたしは世の中で一番好きな音楽が『君が代』なんですけども。ああいう、先に日本語のノリがあった上で成立する音楽は素晴らしい。それはもうリズム・パターンにも影響してきますね。そういう意味で昭和初期の歌謡曲なんかほんとに歌詞の乗せ方からなにからお見事と言うしか言いようがない。」と語っている[129]
ライブパフォーマンス

ライブ活動においても当初はサポートミュージシャンを迎え、バンド編成でのライブを行っており、1990年の『世界タービン・ツアー』最終公演では『オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ナース[注釈 15]』と名付けられた看護婦姿のオーケストラ隊が登場した。その後、1992年に行われたライブ『Hi-Res』ではコンピューターの同期を用いて完全に一人で演奏を行い、これが起点となり、1995年以降は基本的に平沢のみでライブを行うようになる。

レーザーハープ等の自作楽器の利用には「音楽の身体性をデジタル世界で実現する」という共通テーマがあるとしており、「デジタル世界では、身体性が無くても音楽が成立してしまう。とすれば、ライブやショーの意味はどこにあるのか?人間がそこにいる意味は何があるのか?」、「打ち込みで完成する音楽を構成する音楽家にとって、ステージ準備段階で仕事は完了してしまう。それでも「ヒラサワという人間」が見たいのだとすれば、自分がステージ上で動くという前提を作らなければならない。そこで「体が動くテクノロジー」を楽器に組み込むようにしているんです。」と語っている[130]

平沢は元々生演奏におけるミュージシャン固有のニュアンスを排したかったと述べており、以降はP-MODELの再結成やソロ活動初期のようなバンド形式での活動には後ろ向きの態度をとるようになり、2004年に活動を開始した核P-MODELも、基本的には平沢のソロプロジェクトである。一方で、2012年のライブ『PHONON2555』にPEVO1号や元P-MODELメンバーの荒木康弘がサポートメンバーとして参加して以降は、サポートパフォーマーとしてゲストを迎えることも増え、バンド形式での活動も再び増加している。2017年に行われた『第9曼荼羅』より、正体不明のメンバー「会人(EJIN)」がサポートとして参加するようになり、2019年からは「平沢進+会人(EJIN)」というユニットとしても活動を行っている。

なお、この「会人(EJIN)」は公演毎に容姿が変化しており、『第9曼荼羅』では熔鉱炉マスクを装着した「黒会人」[131]、核P-MODELのライブ『回=回』と『フジロックフェスティバル'19』ではペストマスクを装着した「白会人」[91]、『24曼荼羅(不死MANDALA)』・「フジロックフェスティバル'21」ではルベドマスクを装着した「ルベダリアン会人」となっている[95]
人物
幼少期・学生時代

子供の頃から機械が好きで、幼少期は自分のことをエンジニアだと思っていた[20]パイロットに憧れていた時期もある[132]。親からもらったラジオ懐中電灯などの壊れた機器をよく修理していた[20]

10歳になりエレキギターに興味を持ち、エレキギターの使用が不良と認識されていた時代であった当時、幼少期は兄の裕一の部屋に置いてあるものを隠れて弾いていた[133]消防士の父親は音楽をする事を反対していたが、エレキギターは男らしいと許可した[134]。その後自身のエレキギターを手に入れ、学校関係の人々からは隠れてギターを練習し、小学5年生の頃にはギター技術を買われて中高生のバンドに誘われ神社や河川敷でセッションをして過ごしていた[135]

小学生時代は学校生活で教師とクラスメイトによって肉体的・精神的苦痛を与えられた。体質上肉類を苦手としており、給食で食べさせられトイレで血と共に吐いていた。現在は、当時を振り返り「幸い、そのような環境が私を育てた」と発言している[136]。12歳には音楽を作る事に興味を持つ[137][138]

高校の時期に兄の裕一から読書を勧められる。その後、宮沢賢治シオドア・スタージョンニコラ・テスラ量子論カール・グスタフ・ユング等の書籍に傾倒していった(詳細は「影響を受けた人物」を参照)[139][20]


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