平沢進
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この頃に安部文泰と出会い、安部と共に本格的な音楽活動を開始する[24]。メンバー募集の貼り紙を見た田中靖美・田井中貞利が応じ、1973年にHR/HMバンド『マンドレイク』を結成した[25]。結成当初、平沢はギタリストとして参加していたが、ボーカリスト・作詞担当だった安部が失踪してしまい、急遽ボーカルおよび作詞を始めた[26]。この頃のマンドレイクはHR/HMからプログレッシブ・ロックへと転向していたが、1970年代後半になると平沢はパンクブームによるパンク・ロックバンドの台頭を知り、ニューウェーブバンドへの模索を始める[27]

マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共に、電子音楽を演奏するバンド『バッハ・リヴォリューション』に参加し、同バンド内で神尾明朗と出会う。神尾とは後にP-MODELで「FISH SONG」を共作し、P-MODELや平沢ソロのプロデューサーを務める事となる。1978年には神尾の勧めで週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストに参加。作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞し、入賞作品を集めたコンピレーション・アルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた[注釈 7]。平沢は「バッハ・リヴォリューション」のサポートメンバーとして、当時同じく結成して間もなくだったYMOらが参加するライブイベントに参加したこともあった[28][29]

同時期に田中と共にモーグ・シンセサイザーを用いてバロック音楽などをアレンジしたものを製作した[注釈 8]ウェンディ・カルロス「スウィッチト・オン・バッハ」やクラフトワークを参考に、KORG 800DVによるノイズが混ざった音色[注釈 9] を制作し、「アクリル・ポップ(ミュージカル・ホッチキス)」と名付けた[29]

マンドレイクは最終的にはレコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年年末に解散する[20][29]
P-MODEL結成?活動凍結

P-MODELの活動についてはP-MODEL#来歴P-MODEL#音楽性を参照。

1979年元日、平沢の実家にて、実兄でありマンドレイクの演出担当だった平沢裕一とマンドレイクのメンバーだった田中・田井中が集まり、P-MODEL結成へのミーティングが行われる[30]。「アクリル・ポップ」を活用した楽曲制作とヴィジュアルイメージとして機材や服装はカラフルな配色などのコンセプトが決まっていった[31]。同年3月にP-MODEL初のライブを行い、同年7月にメジャーデビューを果たす[29]

1978年から1981年頃まで『バッハ・リヴォリューション』のメンバーが運営する会社「エレクトロサウンド」に所属し、ヤマハのシンセサイザー教室の講師やマニピュレータ、CMソング制作などの仕事を行うようになる[29]。バンド活動と並行してペンネームでの楽曲制作を行い、プロレスラー長州力の入場テーマ曲「パワー・ホール」を異母犯抄として作曲[32]ストロング・マシーンの入場曲「ハリケーンズ・バム」も福来良夫名義で作曲している[33]。仕事の一環として1979年には三遊亭圓丈と共にシンセサイザー落語を行った[34]。これは圓丈の新作落語「無類麺類好き男」の要所でシンセサイザーによる効果音を鳴らすという物だった[34]。また、CMソング制作は90年代前半まで行っており、テクノポップからカントリー風な物まで様々な作風の物を作曲した。これが平沢ソロでのバラエティに富んだ音楽性に繋がっている[35]

1982年には平沢が講師を務めていたシンセ教室の生徒だった折茂昌美と足立眞理を「Shampoo」としてプロデュースを行い、メジャーデビューをさせている。以降、折茂とは長らく交流が続き、1990年には島崎和歌子に提供した楽曲「アフリカのクリスマス」を共作し、2005年に行われたイベント『反射の集いは氷の9』、2013年と2022年のインタラクティブライブにはゲストとして参加している[36][37]

1984年にはP-MODELと並行して実験音楽サンプリングユニット『』を結成し、1996年までにシングル・アルバム含め6作品を発表している[38]。なお、当時のサンプリングマシンは非常に高価で個人が気軽に所有出来る物ではなかった為、平沢はラジオカセットレコーダー2台を改造して自作サンプリングマシン「ヘヴナイザー」を制作した[20]

また、1987年頃から関西のテクノユニット『4-D』の小西健司と共に「不幸を退治する」との名目でフロッピーの往復書簡で遠距離での楽曲制作を始める[39]。この時に制作された楽曲は1996年に「不幸のプロジェクト」名義でアルバム『不幸はいかが?』として発売された[16]
ソロデビュー

1988年12月、P-MODELは活動「凍結」を宣言し、活動休止となる[40]

1989年1月に所属事務所をMODEL HOUSEからアイスリープロモーションへ移籍。レーベルをポリドールと契約する。同年、アルバム『時空の水』でソロデビューした[41]

1991年にはロボットSFアニメデトネイター・オーガン」の音楽を担当する[42]。以降は劇伴製作にも進出し、HTB人間ビジョンスペシャル カムイ・ミンタラ 神々の遊びの庭・阿寒』や志摩スペイン村にて上演されたライブショー『ロストレジェンド?失われた大陸の伝説?』の音楽を担当した[43][44][45]。また、1992年には長野県茅野市からくり時計台オルゴールを作曲した[46][47][48]

なお、「カムイ・ミンタラ」のサウンドトラックは当時発売されず、その中で使用された楽曲である「カムイ・ミンタラ」のみが、1992年に発売したベストアルバム『魂のふる里』に収録された。完全収録されるのは2012年発売のボックスセット『HALDYN DOME』まで待つこととなる。

また、1991年9月にはP-MODELが「解凍」し、再結成を果たす。その後の詳細はP-MODEL#来歴を参照。

1994年にはディスクユニオン内に独自レーベル「DIW/SYUN」を設立。主に『旬』や『P-MODEL』関係のアルバムが発売された。また、同年にストーリー仕立ての観客参加型マルチメディア・コンサートとして「インタラクティブ・ライブ」を開始する[49]

また、1994年7月8日から翌年の1995年3月31日まで初の冠番組である『平沢進のテクノ実験工房』がFM群馬にて放送され、平沢と共に上野洋子(元ZABADAK)がパーソナリティを務めた[50]。同年10月28日、女子美術短期大学にてAMIGAによるコンピューターグラフィックス(CG)制作方法とインタラクティブ・ライブの解説を主題とした「平沢進講演会」が開催[51]


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