1995年頃からタイの第二の女性であるサオプラペーッソン(SP-2)[注釈 17] に深い関心を示し、繰り返し現地を訪れている[145][146]。以降、彼女たちには、レコーディング時にコーラスとして協力を仰いだり、ライブアクトとして招聘したことがある[147][148][149]。
2004年には、平沢と親交が深かった9人の彼女たちが相次いで亡くなったことを受け、彼女たちを追悼するアルバム『SWITCHED-ON LOTUS』が製作された[150]。サオプラペーッソンの存在そのものが、創作意欲に大きな影響を及ぼしていると本人は語っており、彼女たちに対して大きな尊敬を以て接していることがその言動から見て取れる。
上記のように体質上、幼少期から菜食中心の生活をしていたが、タイ王国での影響でそれらを「ピタゴリアン」と呼ぶようになる[20]。
また、1994年から1998年、2000年、2007年にはファンクラブ旅行『万国点検隊』を開催[151]。主にタイ王国を舞台とし、インタラクティブライブで行われるようなゲームが展開された[152]。1995年、1997年にはインタラクティブライブやアルバムの物語の続編として行われた。2007年の万国点検隊を編集した映像作品『P-0』の売り上げは現地の老人ホーム、聾学校、野犬保護施設にを寄付している[153]。
2008年11月、タイ王国の平沢の友人らである23人のSP-2[75] との1994年からの交流から生まれたエピソードを、彼女たちの写真と共に綴ったエッセイ集『SP-2: タイのニューハーフ? いいえ「第2の女性」です』を自社出版した[76]。
2011年3月11日、タイ王国滞在中に東日本大震災が発生。3月21日に被災された方々へ祈りを捧げる為に現地のWat Raikching寺院(タイ語: ?????????)に頼み、亡くなった方のご冥福と日本人の安全を祈願した寺院の僧侶達の映像をインターネット上で発信し届けた[154]。 1980年代末、P-MODELのライブ演出などで使用するためにパーソナルコンピューター『Amiga』を導入した[155][156][157]。 当時については「コンピュータについての知識ゼロ」、「まったくのドシロート」、であったと平沢は語っており、更に輸入パソコンのAMIGAにはマニュアルも無く、手探りでプログラミングやCGデザイン等を覚え、音声合成機能「Sayプログラム」等を含めた音楽への転用を模索していった[158]。 1994年発売の4thアルバム『AURORA』からはゲスト・ミュージシャンを入れず、Amigaを駆使して平沢個人のみによる楽曲製作を開始した[159]。 また、同年より活動再開した改訂P-MODELでは、インターネットをキーワードとしており、P-MODELのオフィシャルサイトではライブツアーやレコーディングの模様をMPEGファイルとして配信し、各メンバーが個人ホームページを開設してリスナーとの直接なやり取りが行われた[注釈 18]。平沢も個人ホームページ『Ghost Web』を開設した[160]。
インターネット黎明期・デジタル技術台頭以降の活動と活用
パーソナルコンピュータとインターネットの活用