平沢進
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1979年テクノポップバンド『P-MODEL』を結成し、ボーカル・ギターとしてシングル『美術館で会った人だろ (ART MANIA)』でメジャーデビュー[13][14]テクノ御三家の一角として、テクノポップブームの火付け役となり、テクノニューウェイブシーンにおける中心的存在となる[15]

1984年にはバンドと並行し、自作サンプリングマシン「ヘヴナイザー」などを使用した実験音楽サンプリングユニット『』を結成。また、1987年からは4-D小西健司フロッピーディスクの往復書簡による遠距離での楽曲制作を開始し、1996年に『不幸のプロジェクト』としてアルバム「不幸はいかが?」をリリースした[16]

1989年にソロアルバム「時空の水」をリリースし、バンド・ユニットと並行してソロ活動を開始[17]

2000年にP-MODELは活動休止をし、2004年からは平沢がP-MODELの音楽性を継承したプロジェクト『核P-MODEL』としても不定期に活動している[18]

また、2017年からはサポートメンバーである「会人」を加えたユニット『平沢進+会人』としても活動している[19]
来歴
P-MODEL結成まで

幼少期は機械いじりが好きであったが、知り合いの牛乳配達員がジミ・ヘンドリックスクリームレコードなどを実家への配達時に教えてくれる機会があり、10歳頃から音楽へと傾倒していった[20]。小学生の頃にテレビや兄の持っていた雑誌に写っていたエレキギターに惹かれ、赤色のエレキギターを購入する[21]。しかし、メディアによく出演していたザ・ベンチャーズよりもTHE SPOTNICKS(スウェーデン語版)やThe Atlantics(英語版)に影響を受けたと語っている[22]。中学生になると「おまえと似たやつがいる」と同級生に紹介され、別の中学校の年上のドラマーと初めてバンドを結成する[23]

その後、一旦音楽を離れモトクロスに転向。しかし、高校生のときにトラックとの事故を起こしたことがきっかけでギター演奏を再開する[22]。この頃に安部文泰と出会い、安部と共に本格的な音楽活動を開始する[24]。メンバー募集の貼り紙を見た田中靖美・田井中貞利が応じ、1973年にHR/HMバンド『マンドレイク』を結成した[25]。結成当初、平沢はギタリストとして参加していたが、ボーカリスト・作詞担当だった安部が失踪してしまい、急遽ボーカルおよび作詞を始めた[26]。この頃のマンドレイクはHR/HMからプログレッシブ・ロックへと転向していたが、1970年代後半になると平沢はパンクブームによるパンク・ロックバンドの台頭を知り、ニューウェーブバンドへの模索を始める[27]

マンドレイクのメンバーであった田中靖美と共に、電子音楽を演奏するバンド『バッハ・リヴォリューション』に参加し、同バンド内で神尾明朗と出会う。神尾とは後にP-MODELで「FISH SONG」を共作し、P-MODELや平沢ソロのプロデューサーを務める事となる。1978年には神尾の勧めで週刊プレイボーイ誌上で行われたシンセサイザーの多重録音コンテストに参加。作品「いりよう蜂の誘惑」が入賞し、入賞作品を集めたコンピレーション・アルバム『驚異の頭脳集団』に収められメジャーリリースされた[注釈 7]。平沢は「バッハ・リヴォリューション」のサポートメンバーとして、当時同じく結成して間もなくだったYMOらが参加するライブイベントに参加したこともあった[28][29]

同時期に田中と共にモーグ・シンセサイザーを用いてバロック音楽などをアレンジしたものを製作した[注釈 8]ウェンディ・カルロス「スウィッチト・オン・バッハ」やクラフトワークを参考に、KORG 800DVによるノイズが混ざった音色[注釈 9] を制作し、「アクリル・ポップ(ミュージカル・ホッチキス)」と名付けた[29]

マンドレイクは最終的にはレコード会社数社に声を掛けられるほど成長したが、1978年年末に解散する[20][29]
P-MODEL結成?活動凍結

P-MODELの活動についてはP-MODEL#来歴P-MODEL#音楽性を参照。

1979年元日、平沢の実家にて、実兄でありマンドレイクの演出担当だった平沢裕一とマンドレイクのメンバーだった田中・田井中が集まり、P-MODEL結成へのミーティングが行われる[30]


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