平氏
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高望流

坂東平氏」も参照

葛原親王三男の高見王の子・高望王の子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望はそのうちの一人と推定されている。

高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香良兼良将を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。良将の子平将門は大規模な反乱を起こし(承平天慶の乱)、追討にあたった国香の子・平貞盛の子孫は関東各地に勢力を張った。鎌倉幕府の実権を握った北条氏御家人熊谷氏は、貞盛の曾孫である直方の末裔と称している。

また、高望の側室の子良文鎮守府将軍になるなど武士として活躍し、主に関東に勢力を張った。土肥氏秩父氏などは良文の子孫を称している。しかし孫の平忠常が反乱を起こし(平忠常の乱)、源頼信の討伐を受けたことでその子孫は源氏の家人として扱われるようになった。忠常の子孫は千葉氏上総氏などの房総平氏を輩出している。千葉氏の庶流には陸奥国宇多郡行方郡を領した相馬氏があり、江戸時代まで大名として続いた。

特に良文流の坂東平氏の中で著名な千葉氏、上総氏、三浦氏秩父氏畠山氏鎌倉氏中村氏大庭氏坂東八平氏と呼ばれる。
伊勢平氏詳細は「伊勢平氏」を参照

貞盛四男の平維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。伊勢平氏の中でも特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、清盛の晩年には各地で平氏政権に対する反乱(治承・寿永の乱)が起き、最終的には平頼盛以外の正盛流は壇ノ浦の戦いの敗北により滅亡した。

しかし、平家の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして得宗被官長崎氏薩摩種子島氏対馬宗氏尾張織田氏などが挙げられる。 熊本県五家荘富山県五箇山などには「平家の落人」の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。
平家平家の武者達を描いた歌川芳虎錦絵。清盛の一族の他、城長茂や難波経房などの家人も描かれている

伊勢平氏のうち、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ事が多い[12]。ただし、「平家」という言葉は本来、数多い平氏の中でも特定の家もしくは集団を指す言葉に過ぎず、初めは桓武平氏の中でも伊勢平氏が属する武家の高望王流ではなく、京の都で文官として活躍していた高棟王流の人々を指していた(『江談抄』(二))。また、平氏政権時においても清盛一族のみならず、彼らに仕えている家人郎党らを含めた軍事的・政治的集団を指す用法としても用いられ、この場合の「平家」には清盛に従った藤原氏や源氏の武士も含まれることになる。勿論、本来の「平家」である高棟王流は明治維新まで存続したのであるから、その意味では、壇ノ浦の戦い以後も「平家」は存続していたとも言える[13]。鎌倉時代に入ると『平家物語』が成立し、今日まで広く愛される軍記物語となった。

源家という言い方は余り用いられないが、清和源氏に限らず、源氏自体を指す[14]
伊勢氏詳細は「伊勢氏」および「後北条氏」を参照

室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏は平維衡の子孫を称しており、伊勢氏は代々政所執事を世襲した。伊勢貞親は第8代将軍足利義政の養育係を務め、義政の成人後も幕政に大きな影響力を持った。第13代将軍足利義輝の時代の政所執事伊勢貞孝は幕政を壟断するまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏の傍流備中伊勢氏出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆相模を平定し、戦国大名後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。


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