平氏政権
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以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。

平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨[注釈 1]を画期とする見解と、治承三年の政変1179年)の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。
歴史
前史

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平氏政権に至る基盤形成は、白河院政期に遡る。平正盛は、桓武平氏貞盛流伊勢平氏に出自し、その父の正衡までは軍事貴族の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、永長2年(1097年伊賀国の所領を六条院(白河上皇の娘・郁芳門院の御堂)に寄進して鞆田荘を成立させた。正盛は預所となり、周辺の東大寺領も取り込んで立荘するなど、白河の政治権力を後ろ盾に東大寺国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功した。立荘の背景には、東大寺や国衙の支配と収奪を逃れようとする田堵農民層と、自らの所領の拡大・安定を狙った正盛の間に利害の一致があったと考えられる。正盛は自らに服従した田堵を郎等家人にして、武士団を形成していった。

一方、白河上皇も権力維持のために、正盛の武力を必要としていた。当時の白河は院領が少なく、直属武力もほとんどなかった。しかも、白河に対抗する勢力として、異母弟・輔仁親王摂関家を始めとする伝統的貴族が存在し、田堵農民層を神人・寄人に組織して巨大化した寺社勢力の圧力も熾烈だった。これらの諸勢力を抑えて国政の主導権を確保するため、白河は自らの手足である院近臣や親衛隊ともいえる北面武士を、受領太政官兵衛府衛門府などの公的機関に強引に送り込んでいった。

このような情勢の中で北面武士になった正盛は、出雲源義親の濫行が起こると、嘉承2年(1107年)12月19日、追討使に抜擢される。翌年正月には早くも義親の首を携えて華々しく凱旋し、白河は正盛を但馬守任じた(ただし、その後も義親生存説が根強く残る)。これを契機に北面武士の規模は急激に膨張し、元永元年(1118年延暦寺強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記』)。正盛は主に、北面武士・検非違使・追討使といった国家権力の爪牙として活躍するが、各地の受領も歴任した。当時、国衙は在地領主・田堵農民層との闘争でその支配体制が危機に瀕していたため、武力による補強が求められていた。

正盛の子・忠盛も父の路線を継承して、院政の武力的主柱となった。その役割は鳥羽院政期となっても変化はなく、牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核ともいえる院御厩(いんのみうまや)の預(あずかり)となった。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、大宰府の関与を排除して日宋貿易にも直接介入するようになった。

この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な武士棟梁を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は海賊追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。

浴び3年(1153年)忠盛が没したとき、藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の清盛に継承された。
形成期

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保元元年(1156年)、治天の君及びの座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で清盛は後白河天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、政治を主導する信西と後白河院政派(藤原信頼藤原成親源師仲)・二条親政派(藤原経宗藤原惟方)の対立が激しくなり、3年後の平治元年(1159年)に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。

平治の乱後の永暦元年(1160年)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、後白河上皇と二条天皇の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、武士で最大の実力者となっていた清盛は室の時子が二条の乳母であったことから、天皇の乳父として後見役の地位を得て検非違使別当中納言となった。その一方で後白河院庁別当として後白河への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産すると、平時忠平教盛らはその立太子を画策したことで二条の逆鱗に触れて解官、後白河院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため皇居の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに関白近衛基実を娘の盛子の婿に迎え、摂関家にも接近する姿勢をとった。

永万元年(1165年)に二条天皇が崩御した。前後して前関白藤原忠通1164年 薨去)、太政大臣藤原伊通1165年薨御)、摂政近衛基実1166年薨去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。


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