平成
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当時、内閣内政審議室長として新元号選定に関わった的場順三[2]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、目加田誠宇野精一の3氏の提案[注 6]によるものだという。『文藝春秋』での佐野眞一の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、改元前に物故した諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている[25]。この取材以前には竹下内閣当時の内閣官房副長官であった石原信雄も物故者の案は没になる旨の証言[26]をしていた。一方で、「平成」という言葉を知っていたと目され、的場が新元号選定に関わる前に物故していた諸橋や安岡正篤らの案の一覧表を竹下総理ほか政府関係者が見たという政府関係者の証言[21][27]もあり、これは物故した学者の考案した元号案は除外して廃案になるという石原や的場の証言と食い違う。また、封をしたまま三原朝雄総理府総務長官大平正芳総理に提出し、そのまま金庫に納められたという資料[28]の所在を竹下総理[29]福岡から官邸に訪ねてきた三原[30]から聞いたのか不明となる。

的場内閣内政審議室長は前任者から引き継いだ候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったので、代わりの学者を秘密裏に探すため文部省職員と2人だけで選定の準備作業に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという[31]

竹下内閣当時の内閣官房副長官であった小沢一郎は、「総理のところに上がってきた案は『平成』と『化成』の二つであり、総理と小渕さんと僕の3人で『平成』を選んだ」ことを証言している[32]

竹下首相が総理を降りた後、1990年(平成2年)1月に行った講演の際には元号法制定以降に委嘱した学者の中に陽明学者の安岡正篤がいた旨を述べたとされ、そこから「平成」は安岡が発案した説[33]が広まった。しかし、安岡も昭和天皇の崩御前に物故しているため安岡の発案ということは有り得ない[34]。的場は「実際、『平成』の考案者は安岡正篤という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている[11]。竹下は首相退任後に記した著書[35]の中で、「平成」は生存している立派な学者の考案である旨を証言している一方で、首相退任後も竹下の私邸に通っていた共同通信社記者の後藤謙次が「考案者は安岡氏ではないか」という話を振ると、「たとえ死んでも、違う人に出してもらう手もあるわな」と竹下がぽつりと漏らしたという報道[36]もある。渡部恒三も「『平成』の原案をつくったのは安岡先生だと思う。まだ昭和天皇が亡くなる前だから、あんまりおおっぴらにできないけど、竹下と小渕と俺の三人だけで相談して、あの先生に元号を作ってくれ、とこっそり頼みに行ったことがある」と証言している。ただし、「竹下の元秘書の上野は、安岡の晩年の秘書から、『平成』は安岡先生の原案ではない、と聞いている。」という有力な反論もある[25]
典拠

新元号の発表時に小渕内閣官房長官が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通りである。※漢文中の太字箇所から元号が採られた。『史記』五帝本紀 帝舜

?平外成
(内(うち)平(たひら)かに外(そと)成(な)る)『書経(偽古文尚書)』大禹謨

地平天成
(地(ち)平(たひら)かに天(てん)成(な)る)

「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である[37][38][39][40][41]。日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」()などの外国の元号や13代成務天皇諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえる。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」があり[42][43]、出典も同じ『尚書(書経)』大禹謨からとされている[44]

なお、「平成」の決定の際に漢学者らからは「同じ記述がある『春秋左氏伝』から引用すべきだったのではないか」や「出典箇所(書経の該当項目)は偽書の偽古文尚書であり、信用性に欠ける」といった意見もあった。
発表新元号を発表する小渕恵三内閣官房長官(1989年〈昭和64年〉1月7日)

小渕内閣官房長官(当時、後に首相)が、総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に「平成」と文字を揮毫したのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職河東純一である。

小渕内閣官房長官の秘書官だった石附弘も「大正」からの改元時の「昭和」の発表時には、ラジオでは漢字の雰囲気を伝えられず、「光文事件」の誤報もあり、大衆の期待感が高まらなかったことを受け、テレビの生放送により「新時代への期待感や雰囲気」を醸成できると考えており、テレビ会見を重視していた。揮毫した河東も「確たる未来と新時代への力強さを見せるため」あえて文字のかすれを抑えるなど、映像が流れた際の見栄えを考慮していたという[31]

文字だけではなく、披露する際の動作も事前に考えており、印象を残すため半紙を顔の横に掲げることにした。また、当初は半紙をアクリル板に貼り付ける予定だったが、直前にマスコミに相談したところ、フラッシュが反射して見えないとの指摘を受け、「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」の構成となった[31]

河東は2005年(平成17年)12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令および表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した[45]

発表後の奉書紙については、発表後の扱いについて取り決めがなされておらず[注 7]、実際に掲げられた正本が竹下首相に、予備の副本が小渕官房長官にそれぞれ贈呈されて私有物扱いとなり、公式には行方不明となっていた[46]。後に、竹下の孫(次女の息子)である歌手・タレントのDAIGOが出演したTBSテレビ等の番組において竹下邸一階の応接間に飾られて保管されている様子が紹介されたり[47][48]、その本物の奉書紙を許可を得て持ち出して披露した[49][50]ことで行方が判明した。その後、国立公文書館が平成21年度秋の特別展「天皇陛下御在位20年記念公文書特別展示会」[51]を開催するために、竹下家と連絡を取って奉書紙を2009年9月に借り受け、特別展が終わり返却しようとしたところ、竹下家から保存の意向を受けて、翌2010年3月に正式に寄贈されることとなった[15][46][52]。これを受けて令和の奉書紙は、発表当初から公文書として扱うことが決定した[46][53][54]

国立公文書館では簿冊標題「平成(元号)の書」としてスキャン画像が公開されているが、原本は閲覧できない[55]。同館の常設展示室には通常、奉書紙の複製が展示されているが[56]、期間を限って原本を特別展示することもある[57]。なお、国立公文書館のショップではスキャン画像を元にしたクリアファイルが販売されている[58]


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