平成
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「元号に関する懇談会」に出席した有識者[10]氏名肩書(当時)
広域への影響力所属
池田芳蔵第4代(1973年 - 1979年)三井物産代表取締役社長第14代(1988年 - 1989年)NHK(日本放送協会)会長
久保亮五フランス科学アカデミー名誉会員慶應義塾大学理工学部教授
小林與三次第14代(1985年 - 1991年)日本新聞協会会長読売新聞社代表取締役社長
中川順第7代(1984年 - 1990年)日本民間放送連盟会長テレビ東京代表取締役社長
中村元インド哲学者、仏教学者東京大学名誉教授
西原春夫日本私立大学連盟会長第12代(1982年 - 1990年)早稲田大学総長
縫田曄子NHK委嘱解説委員(1975年 - 1988年)市川房枝記念会理事長
森亘第13代(1985年 - 1989年)国立大学協会会長第23代(1985年 - 1989年)東京大学総長

その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し[11][12]、同日14時10分から開かれた臨時閣議において新元号を正式に「平成」と決定した。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、『平成(へいせい)』であります。 ? 内閣官房長官 小渕恵三

と述べたあと、河東純一揮毫した新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた(#経緯も参照)。なお、新元号の発表の際に、口頭での説明は難しいので、視覚に訴えるように「書」として発表したのは、石附弘秘書官のアイディアである[11]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに元号を改める政令の原文があります。

同日、「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」は新天皇の允裁(いんさい)[注 4]を受けた[13]後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された[14]。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された[14]

明治から大正、大正から昭和への改元の際と異なり[注 5]、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサを初めとするOAに伴うコンピュータプログラムの変更を行うためと報道された。
「平成」提案に関する事項

最終候補の3案の一つであった「平成」を提案したのは、東洋史学者の山本達郎である[15][16][17][5][11][18][19]

当時、内閣内政審議室長として新元号選定に関わった的場順三[2]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、目加田誠宇野精一の3氏の提案[注 6]によるものだという。『文藝春秋』での佐野眞一の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、改元前に物故した諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている[25]。この取材以前には竹下内閣当時の内閣官房副長官であった石原信雄も物故者の案は没になる旨の証言[26]をしていた。一方で、「平成」という言葉を知っていたと目され、的場が新元号選定に関わる前に物故していた諸橋や安岡正篤らの案の一覧表を竹下総理ほか政府関係者が見たという政府関係者の証言[21][27]もあり、これは物故した学者の考案した元号案は除外して廃案になるという石原や的場の証言と食い違う。また、封をしたまま三原朝雄総理府総務長官大平正芳総理に提出し、そのまま金庫に納められたという資料[28]の所在を竹下総理[29]福岡から官邸に訪ねてきた三原[30]から聞いたのか不明となる。

的場内閣内政審議室長は前任者から引き継いだ候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったので、代わりの学者を秘密裏に探すため文部省職員と2人だけで選定の準備作業に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという[31]

竹下内閣当時の内閣官房副長官であった小沢一郎は、「総理のところに上がってきた案は『平成』と『化成』の二つであり、総理と小渕さんと僕の3人で『平成』を選んだ」ことを証言している[32]

竹下首相が総理を降りた後、1990年(平成2年)1月に行った講演の際には元号法制定以降に委嘱した学者の中に陽明学者の安岡正篤がいた旨を述べたとされ、そこから「平成」は安岡が発案した説[33]が広まった。しかし、安岡も昭和天皇の崩御前に物故しているため安岡の発案ということは有り得ない[34]。的場は「実際、『平成』の考案者は安岡正篤という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている[11]。竹下は首相退任後に記した著書[35]の中で、「平成」は生存している立派な学者の考案である旨を証言している一方で、首相退任後も竹下の私邸に通っていた共同通信社記者の後藤謙次が「考案者は安岡氏ではないか」という話を振ると、「たとえ死んでも、違う人に出してもらう手もあるわな」と竹下がぽつりと漏らしたという報道[36]もある。渡部恒三も「『平成』の原案をつくったのは安岡先生だと思う。まだ昭和天皇が亡くなる前だから、あんまりおおっぴらにできないけど、竹下と小渕と俺の三人だけで相談して、あの先生に元号を作ってくれ、とこっそり頼みに行ったことがある」と証言している。ただし、「竹下の元秘書の上野は、安岡の晩年の秘書から、『平成』は安岡先生の原案ではない、と聞いている。」という有力な反論もある[25]
典拠

新元号の発表時に小渕内閣官房長官が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通りである。※漢文中の太字箇所から元号が採られた。『史記』五帝本紀 帝舜

?平外成
(内(うち)平(たひら)かに外(そと)成(な)る)『書経(偽古文尚書)』大禹謨


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